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ジャッキー映画製作年の謎【後編-最終章】後編まとめ

『【最終章】後編まとめ』の画像

ここでは、後編のまとめとして、ジャッキー・チェンが羅維のもとに身を寄せ、『酔拳』トップスターへと上り詰めるも契約問題で揉め、アメリカ進出にも失敗と波乱に満ちた70年代後半~80年代はじめまでのジャッキーの動きを一気にまとめてみました。

ここでは、今まで後編で検証してきた内容を踏まえ、自伝の記述をベースに独自の解釈を加えた70年代後半から80年代はじめまでのジャッキーストーリーをまとめています。

羅維(ロー・ウェイ)との出会いと成龍の誕生

オーストラリアで燻っていたジャッキーを以前から面識のあったウィリー・チェンが拾い上げ、羅維のもとで「成龍」として再デビュー。その後ヒット作に恵まれず悶々としてたであろう時期です。

1976年春~夏(ジャッキー21~22歳)

『レッド・ドラゴン 新・怒りの鉄拳/新精武門(1976)』の画像

スタントマンから武術指導へ、俳優としても端役から主演級にまでステップアップしたジャッキーだったが、ブルース・リーの死によって冷え込む香港映画界で挫折しオーストラリアへ再び戻っていた。

そんな時、ウィリー・チェンから連絡があり、独立した羅維(ロー・ウェイ)の元での映画主演話が舞い込んでくる。

ギャラは1本3,000HKドルとかなり安かったものの、ジャッキーは再起を誓い、すぐ香港へ。そして「成龍」という新たな名前で再デビュー作『レッド・ドラゴン』の撮影に臨んだ。

『少林寺木人拳(1976)』の画像

この作品はブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』の続編で、ジャッキーは「第2のブルース・リー」として売り出されることに。しかし、興行成績は芳しくなかった。

続けて、『少林寺木人拳』にも出演。この作品は友人でもある陳誌華(チェン・シーホワ)が執行監督ということもあり、実験的な映画作りが出来たものの、またしても興行成績で良いものを残せなかった。

1976年秋~1977年夏(ジャッキー22~23歳)

『ファイナル・ドラゴン/風雨雙流星(1976)』の画像

ジャッキーを「第2のブルース・リー」として華々しくデビューを飾らせることが出来なかった羅維は、主役としての華が足りないと言われていたジャッキーに対し、目の整形を指示。また、コスト面を考え韓国との合作を進めていく。

そしてジャッキーは76年の秋から3本の作品に関わることに。

まずはかつての大スター、ジミー・ウォングが主演として起用された『ファイナル・ドラゴン(キラードラゴン流星拳)』に悪役として準主演。

『成龍拳/劍花煙雨江南(1977)』の画像

しかし、すでにジミー・ウォングの人気も落ち目になっておりヒットせず。香港では公開すらされなかった。

続いてジャッキーは『成龍拳』に主演。

胡金銓作品の看板女優、徐楓をヒロインに起用したものの興行成績はさらに悪化。

『蛇鶴八拳(1977)』の画像

また、ブルース・リーの恋人役で一躍アイドルとなったノラ・ミャオをヒロインに迎え、若手の陳誌華に監督を任せた次の主演作『蛇鶴八拳』をほぼ同時期に撮影しはじめる。

羅維監督作品の撮影が優先的に行われていたことや、人気スターであるノラ・ミャオのスケジュールの都合もあり、長い製作期間を要したこの作品も興行的には成功を収めることはできなかった。

『1976年から77年夏までのジャッキー・チェンの動き』の画像

この時期の詳しい情報は下記のリンク先でご覧ください。

スター「ジャッキー・チェン」の誕生

出演作品がことごとくヒットしなかったジャッキーが羅維の元から明プロデューサー呉思遠の元へレンタルされ、『蛇拳』・『酔拳』のヒットで一躍スターに成りあがった時期です。

1977年夏~1978年春(ジャッキー23~24歳)

『ジャッキー・チェンの飛龍神拳/飛渡捲雲山(1977)』の画像

なかなかヒット作を出せずに焦っていた羅維は、3D映画である『空飛ぶ十字剣』が香港でヒットしたのを受け、自身も3D作品を撮ることを決意。

経費の都合もあり、短時間で集中的に撮影されたその作品は『ジャッキー・チェンの飛龍神拳』として77年夏に完成。

しかし、この作品は翌年の春、ジャッキーが『蛇拳』で売れるまで公開すらされなかった。

『カンニング・モンキー天中拳/點只功夫咁簡單(1978)』の画像

その後ジャッキーは、羅維による監督作品の撮影が落ち着いたことで、製作途中だった陳誌華監督の『カンニングモンキー天中拳』の撮影を再開させる。

しかし、この作品の試写を見た羅維を怒らせ、お蔵入りにさせられてしまう。

『スネーキーモンキー蛇拳(1977)』の画像

そして夏ごろからジャッキーを貸してくれと依頼があった呉思遠のプロダクションに出向させられることに。

羅維の監視下から逃れ、自分のアイデアやキャラクターを存分に発揮できる場を得たジャッキーは、呉思遠のもとでユエン・ウーピン監督による『スネーキーモンキー蛇拳』を完成させる。

これが、自身初のヒット作となり、その後のジャッキーの運命を大きく変えることになる。

また、この作品のヒットのおかげでお蔵入りとなっていた『天中拳』の再撮影も行われ、公開に向けて動き出していた。

1978年春~1978年秋(ジャッキー24歳)

羅維は、一転して「金の成る木」となったジャッキーの主演作品を立て続けに計画する。

まずは、自身も脚本に関わっていたSFコメディ『拳精』の製作を開始。そしてそれとほぼ同時期に、呉思遠からジャッキーのレンタルが再度依頼される。

渋りつつも、レンタルを承諾した羅維だったが、なかなかジャッキーを手放そうとはせず、その呉思遠の第2弾『ドランクモンキー酔拳』の製作は思うように進まなかった。その後、羅維は続けて自身の作品、『龍拳』の撮影を続行、結局、呉思遠の『酔拳』の完成は『龍拳』の撮影がすべて終わった後となる。

呉思遠は『酔拳』完成後すぐに台湾、香港で公開。これが前作の『蛇拳』をさらに大きく上回る大ヒットを記録。ジャッキー・チェンを一躍大スターにのし上げた。

一方、羅維の『拳精』と『龍拳』は、ジャッキーがスターとなった後に公開されたにも関わらず良い成績を収めることはできなかった。

『1977年夏から78年秋までのジャッキー・チェンの動き』の画像

この時期の詳しい情報は下記のリンク先でご覧ください。

羅維(ロー・ウェイ)との契約問題とゴールデンハーベストへの移籍

羅維との関係が最悪な状態となり、ゴールデンハーベストとの二重契約の問題でゴタゴタする中、なんとか『ヤングマスター』を完成させるも羅維との約束をすっぽかして失踪してしまう時期です。

1978年秋~1979年春(ジャッキー24歳)

『ジャッキー・チェンの醒拳/龍騰虎躍(1978)』の画像

『龍拳』を撮り終えた羅維はすぐにジャッキーとの契約の最後の作品『鬼手十八翻』の製作にとりかかる。

しかし、その頃ジャッキーと羅維の関係は修復不可能なまでに悪化していた。

そして『酔拳』を撮り終えたジャッキーは、羅維監督による『鬼手十八翻』の撮影を途中で拒否してしまう。

その後、羅維の奥さんである許麗華に懇願され、ジャッキー自身が監督するという条件で撮影に戻ることに。

結局、撮影途中の『鬼手十八翻』は後に他作品やジャッキーのダブルを使った再撮影などが追加され、『ジャッキー・チェンの醒拳』として公開されてしまう。

『クレージーモンキー笑拳(1979)』の画像

その後、脚本も手直しされ、ジャッキーの手で一から撮影し直されたその作品は、『クレージーモンキー笑拳』として完成し、またしても大ヒットを記録。

羅維との契約が満期になったジャッキーだったが、羅維の裏工作もあって再契約。さらには好条件を出してきたゴールデンハーベストとも新規に契約を結んでしまう。

この二重契約の問題はその後3年もの間、ジャッキーやその周辺の人たちを苦しませることとなる。

1979年春~1979年末(ジャッキー25歳)

『ヤングマスター 師弟出馬(1979)』の画像

その後、ジャッキーの契約問題は拗れ、その仲裁役をジミー・ウォングが担当することに。

結果的に、ゴールデンハーベストで『ヤングマスター』、羅維プロで『醒拳』を同時に撮影することで話が収まりかけたが、79年4月、両作品のクランクイン行事を終えたジャッキーはすぐにオーストラリアへと飛び立ってしまう。

ふたたびジミー・ウォングが仲介し、香港へと戻ったジャッキーだったが、ゴールデンハーベストの『ヤングマスター』にかかりきりで、いっこうに羅維の『醒拳』の撮影をしようとはしなかった。

その頃、日本でも『酔拳』が公開されジャッキー人気が高まりつつあった。

三たびジミー・ウォングが『醒拳』撮影の催促をしてきた79年11月、『ヤングマスター/師弟出馬』を完成させたジャッキーは逃げるようにアメリカへと失踪してしまう。

『1978年秋から79年末までのジャッキー・チェンの動き』の画像

この時期の詳しい情報は下記のリンク先でご覧ください。

アメリカ初進出と契約問題の集結

羅維との契約問題から逃れるためアメリカへ逃亡したジャッキーが、その中でアメリカ初進出を果たし、再び香港に戻って『ドラゴンロード』を完成させるまでの時期です。

1980年初~1980年秋(ジャッキー25~26歳)

『バトルクリーク・ブロー/The Big Brawl(1980)』の画像

羅維のもとから逃げ出しアメリカへと渡ったジャッキーは、ゴールデンハーベストでアメリカ初進出となる『バトルクリーク・ブロー』の撮影に入る。

その頃香港では『ヤングマスター』が公開され、興行収入が1,000万HKドルの大台を突破。自身初となる年間1位の大ヒット作品となる。

『キャノンボール/The Cannonball Run(1980)』の画像

その後香港へと戻っていたジャッキーだったが、6月には再びアメリカへ渡り、マイケル・ホイとともにオールスターのハリウッド作品『キャノンボール』へ出演する。

『バトリクリーク・ブロー』のプロモーションでテレビ出演や雑誌などのインタビューをこなすジャッキーのもとにジミー・ウォングがやって来て、羅維との契約履行を要求、ゴールデンハーベストが1,000万HKドルを支払う方向で話が進む。

その後、アメリカで『バトリクリーク・ブロー』が公開されるも、目標としていた興行成績とはかけ離れた数字で終わり、ジャッキーのアメリカ初進出は苦いものとなる。

1980年秋~1981年末(ジャッキー26~27歳)

『ドラゴンロード/龍少爺(1981)』の画像

羅維との問題はその後も長引いたが、ゴールデンハーベストでの次回作の世界版権を羅維に譲ることで和解。

その最新作『ドラゴンロード』は、80年秋から韓国で準備が進められ、1ヶ月ロケ班が滞在したものの天候不順で台湾ロケへと変更。その頃、のちに奥さんとなる林鳳嬌と出会っている。そして、翌81年の6月頃を完成のメドとして撮影は続けられたが、最終的には10月までの長期間に渡り撮影が行われた。

そうして、長い撮影期間でけではなく、製作費も予算をかなりオーバーして完成させた『ドラゴンロード』だったが、『ヤングマスター』に続く首位は獲得できず、興行成績も目標にはほど遠い結果で終わってしまう。

プライベートでもテレサ・テンとの関係が終わりを迎え落ち込むジャッキーだったが、ウィリーに支えられ、サモハンら学院のメンバーとともに作品作りをするために再び立ち上がるのだった。

『1980年から81年のジャッキー・チェンの動き』の画像

この時期の詳しい情報は下記のリンク先でご覧ください。

1976年から1981年にジャッキー・チェンが関与した作品一覧表

後編に登場した作品をまとめた一覧表です。ここでの製作時期とはジャッキーが関わっている時期をさします。また*の作品はジャッキーが関わっていない可能性もあります。

1976年から1981年にジャッキー・チェンが関与した作品一覧表
製作時期初公開邦題
(原題)
製作会社監督香港興収HK$
(総合順位)
備考
1976年03月(~4月)1976-07-08
[香港]
レッド・ドラゴン 新・怒りの鉄拳
(新精武門)
羅維影業羅維456,787
(100位)
1976年6月~7月頃1976-11-10
[香港]
少林寺木人拳
(少林木人巷)
羅維影業羅維476,950
(94位)
執行監督は陳誌華
1976年9月~12月頃1977-05-12
[韓国]
ファイナル・ドラゴン
(風雨雙流星)
羅維影業羅維不明王羽主演、成龍は準主演
1977年01月1977-08-25
[香港]
少林寺怒りの鉄拳
(三德和尚與舂米六)
Gハーベスト洪金寶2,283,594
(13位)
武術指導アシスタント(*)
1976年12月中~1977年3月中1977-07-02
[香港プレ]
成龍拳
(劍花煙雨江南)
羅維影業羅維292,664
(187位)
1977年03月~4月1977-05-13
[台湾]
(龍蛇俠影)中外電影陳誌華512,954
(133位)
カメオ出演(*)
1976年11月~1977年7月1977-11
[香港プレ]
蛇鶴八拳
(蛇鶴八步)
羅維影業陳誌華662,851
(118位)
1977年7月5日~20日頃1978-04-27
[香港]
ジャッキー・チェンの飛龍神拳
(飛渡捲雲山)
羅維影業羅維775,522
(102位)
3D立体映画
1977年12月頃~1978年1月末1978-02-04
[香港プレ]
スネーキー・モンキー蛇拳
(蛇形刁手)
シーゾナル袁和平2,708,748
(13位)
レンタル第1弾
1977年1月~1978年4月1978-11-11
[韓国]
カンニング・モンキー天中拳
(點只功夫咁簡單)
羅維影業陳誌華1,526,871
(70位)
1978年05月頃1978-08-26
[台湾]
(百戰保山河)香港南海影業羅維等12名不明武術指導のみ、出演なし
1978年4月中~1978年6月1978-11-23
[香港]
拳精
(拳精)
羅維影業羅維2,393,383
(19位)
1978年6月~8月頃1979-01
[台湾]
龍拳
(龍拳)
羅維影業羅維1,004,276
(81位)
1978年4月下~9月頃1978-09-23
[台湾]
ドランク・モンキー酔拳
(醉拳)
シーゾナル袁和平6,763,793
(2位)
レンタル第2弾
1978年9月頃(鬼手十八翻)羅維影業羅維未完だが映像を『龍騰虎躍』に使用
1978年10月~12月中1979-02-17
[香港]
クレージー・モンキー笑拳
(笑拳怪招)
豐年影業成龍5,445,535
(2位)
『鬼手十八翻』から改作、初監督作品
1983-03-04
[香港]
ジャッキー・チェンの醒拳
(龍騰虎躍)
羅維影業陳全1,993,793
(93位)
『鬼手十八翻』、『笑拳』の未使用カット等に成龍抜きで追加撮影
1978年12月中~下1980-07-04
[香港]
(舞拳/女刁手)不明陳誌華不明2日間だけ武術指導
1978年12月中~1979年1月1979-08-09
[香港]
燃えよデブゴン6 豚だカップル拳
(搏命單刀奪命搶)
嘉寶影業劉家榮2,961,417
(14位)
武術指導アシスタント(*)
1979年7月~1979年8月頃1980-04-14
[台湾]
(三十六迷形拳)合眾電影陳誌華不明武術指導のみだが、その映像が流出
1979年5月中~11月中1980-02-09
[香港]
ヤングマスター 師弟出馬
(師弟出馬)
Gハーベスト成龍11,026,283
(1位)
自身初の興行成績1位作品
1979年10月~1980-09-18
[香港]
(孖寶闖八關)拳威影片楊權1,541,889
(68位)
陳勳奇主演、成龍は製作のみ
1980年1月下~3月下1980-08-29
[アメリカ]
バトルクリーク・ブロー
(殺手壕)
Gハーベストロバート・クローズ5,776,530
(4位)
アメリカ進出第1弾
1980年6月1981-07-19
[アメリカ]
キャノンボール
(炮彈飛車)
Gハーベストハル・ニーダム5,465,241
(8位)
アメリカ進出第2弾
~1980年7月1981-05-15
[香港]
(老鼠街)拳威影片馮克安1,396,271
(97位)
劉家勇主演、成龍は製作のみ
1980年11月末~1981年11月中1982-01-21
[香港]
ドラゴンロード
(龍少爺)
拳威影片成龍17,936,344
(2位)
出品は羅維影業、発行はGハーベスト

この後、ジャッキーは約2年間という長期間での『プロジェクトA』製作に取り掛かることになります。

これまで [ジャッキー映画製作年の謎・後編] として見てきた期間は1976年から1981年までのわずか5年間に過ぎませんが、内容的には非常に濃い5年間だったと思います。

その後ジャッキーは、80年代、90年代と香港のみならずアジア全域でスターとして不動の地位を築き、2000年以降は念願のハリウッドでの成功も手にするわけです。

きっとその過程でも困難なことは数多くあったのでしょうが、やはりジャッキー・チェンのサクセスストーリーとしてもっとも興味深く、ドラマティックな時期はこの5年間だと思っています。

まだまだ残された謎はたくさんありますが、 [ジャッキー映画製作年の謎・後編] は今回で締めとさせていただきます。

継続してご覧になって頂いた方々に感謝!!

カテゴリ: ジャッキーチェン研究室.


7 件のコメント

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  1. ずうとるび公次 says

    いつも拝見してます。成龍ファンなので凄く勉強になりましたよ?笑後昔「天中拳」噂の聞いたのですが日本公開にはない幻のシーンがあるとか?⁉️宣伝写真で見る「竹やぶの中でポーズ」にも映像あるとか?後ヒーローリュウに成り済ました後に地元のタニマチ達からからの「食事会」の映像が香港や台湾では公開されたとか?⁉️ぜひ教えて頂けたら嬉しいです。

  2. 通りすがり。 says

    成龍拳、天中拳、蛇鶴八拳について、ジャッキーのオカッパヘアーはヅラでしょ。

    シーンによっちゃあ、ヅラとめてる顎ひも見えるシーンもあるし。
    天中拳もそうだけど、蛇鶴八拳のラストバトルは、途中までヅラだけど、後半はヅラ取って自毛で撮影してる。

    追加撮影なんてありえない。

    • kungfufan says

      なるほどそういう意見もあるんですね。
      正解は誰も(関係者以外は)わからないんでしょうが、
      私はオカッパヘアーだったジャッキーがオーストラリアへ行った頃
      (前か後かは忘れました)に、行きつけの床屋でウェーブヘアーを
      勧められてイメチェンをしたという通説を信じています。
      成龍拳の武侠ヘアーはズラだと思います。後半の髪を下ろした時は
      私は自毛だと思っています。
      蛇鶴八拳は追加撮影というかただ単に他の作品との兼ね合いで
      途切れ途切れになっていた撮影の合間にヘアーチェンジをし、
      天中拳は明らかにアクションの組み立て方も変わっているので
      追加撮影はしていると思っています。(オカッパはヅラだと思いますが)
      まぁ結局は見る人それぞれってことで良いのではないでしょうか?

  3. tera-chan says

    kungfufan様

    こんばんは。
    後編、大変興味深く拝見させていただきました。
    本当にお疲れ様でした!

    これはもう「脱帽」としか言いようがありませんよ。
    ここまでの検証は、世界初ではありませんか?

    些少ではありますが、以前当方でこんな画像をアップしておりますので、
    参考資料か何かで、焼くなり何なりしてやって下さい。↓
    http://d.hatena.ne.jp/tera-chan/20060108
    (ログを辿ったら、知らぬ間に海外のフォーラムで何度か取り上げられたことがあります)

    また、以前からお伝えしようと思っていたのですが、
    「歌番組-香港からの中継(1980年代)」のコーナー ↓
    http://kungfutube.info/2747
    の番組名ですが、これはテレビ朝日の「ミュージックステーション」の第一回目の放送を香港から
    したそうで、その時にジャッキーが歌ったみたいですね。

    私も偶然この番組「ミュージックステーション1000回SP 初登場1,000組全部 見せます」を
    撮ってました。ちなみに放送日は、1986年10月24日だったそうですよ。

    以上、取り急ぎ、ご報告まで。失礼致します。

    • kungfufan says

      tera-chanさんこんばんわ。
      「世界初」は言い過ぎです(笑)
      でもありがとうございます。

      『大福星』の情報ありがとうございます。
      何とも凄い写真ですね。
      とっても謎が深まります。
      谷垣さんのブログで、
      http://kenjitanigaki.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-de75.html
      の記事にエリック・ツァンの本の内容として「大福星」について書かれていますね。
      (この情報は別件でyasuhaさんから頂いた情報にありました。)
      ここでジョン・シャムが出ないことになったので新しいバージョンの脚本を頼まれたと。
      でも、この写真では二人のツーショットも載ってますね~。
      いずれにしても最初はジョン・シャムも出演予定だったんですね。
      ジャッキーもおそらくちょっと美味しい話があるから時間くれみたいに誘われたんでしょうね(笑)

      あと「ミュージックステーション」の情報もありがとうございます。
      でも、動画自体無くなってましたが・・・
      テレビ関係はしょうがないんですが、すぐ消されてしまいますねぇ。

  4. 醒龍 says

    kungfufanさん、こんばんは。
    ジャッキー関連記事について拝見しました。
    相当数の記事、そして資料のアップお疲れ様でした!
    ここまで詳細な記事は他ではありませんし、私も見たことはありません。

    既に検証済みの他の作品をベースとされて最大の謎「天中拳」の製作時期を確立されたり、(冒頭が韓国というのも初めて知りました)最後のまとめで振り返られているように他作品との同時撮影、時期の分岐と複雑に入り組んでいる77年~79年頃までの超難問の時期を整理されたのは快挙で素晴らしいことと思いますし、いかに多忙な時期であったことが裏づけられると思います。
    (これを本当に分かり易くグラフ化されていますね!)
    私もこの時代(主に70年代)の研究が終わらないのも当時の香港や台湾からのパワーを感じ続けているからなのですが、ジャッキー本人(いや、過去を穿り返されていやがるかも(笑)。)や出演者の方々からも褒められる内容ではないでしょうか。
    記事中でも書かれていましたがまだまだ謎はあるのかも知れませんね。
    もし何かあれば是非その件を提起したりしていろいろな側面からでも探ってみたいですね。
    長々と失礼しました。

    • kungfufan says

      醒龍さん、コメントと『三十六迷形拳』の情報ありがとうございます。
      そう言って頂けると光栄です。
      ただ単に時間と労力をかけただけなんですが・・・
      今後しばらくはライトな記事を書いていく予定です(疲)。

      でも、この時代の検証はきっとジャッキーは嫌がるでしょうね。
      おそらく「黒歴史」的な時代でしょう(笑)。
      でも醒龍さんがおっしゃるように、当時の香港・台湾は、
      なんだかパワーがありますよね。
      映画界だけで見れば今の中国パワー以上かも。
      私はまだまだ勉強不足ですが、当時の映画界全体の裏事情なんかは
      とても興味がありますね。
      ホント、リアルタイムで撮影現場を見てみたかったです。
      (それも数日で完成させた作品とか・・・)



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