あらたな連載シリーズとして、ジャッキーチェンが中国戯劇学院を去り、羅維(ロー・ウェイ)のところで「成龍」としてデビューするまでの足取りを、自伝「I AM JACKIE CHAN―僕はジャッキー・チェン」や「愛してポーポー」の記述を一応のベースとして、当時の香港の新聞や雑誌などの資料をもとに検証していきます。
第1回目は、子役出演を除く中国戯劇学院時代の出演作品について探ってみたいと思います。
自伝の記述を確認
ジャッキーチェンが中国戯劇学院を去ったのは、17歳のころ、1971年と言われています。
ジャッキーよりも一足先にサモハン・キンポーは学院を去り映画界に入るわけですが、その当時の状況を自伝「I AM JACKIE CHAN―僕はジャッキー・チェン」からまとめました。
サモハン・キンポーが中国戯劇学院を去ったころ、次第に京劇の観客は減っていき、ジャッキーチェンら学院の生徒の仕事も当時人気が増していたマーシャルアーツ映画のスタントやエキストラの仕事が多くなっていた。
数年、ショウブラザーズや他のスタジオでジュニアスタントマンとして働くが、大勢が映画界へ進出した結果、次第に競争が激しくなり仕事を獲得するのが難しくなってきていた。
学院へ入って10年。17歳になっていたジャッキーは、将来に大きな不安と危機感を感じ、自ら学院を去ることを決意する。
また、自伝「愛してポーポー」では、
映画の世界は不思議なもので10歳ぐらいまでの子役と、体がしっかりと出来あがる16、17歳からが必要とされる。
ジャッキーの場合でも『梁山伯與祝英台』や『秦香蓮』などの映画に子役で出た以外、映画に出るチャンスはなく、16歳になって功夫映画に駆り出されるようになる。
17歳になったとき、入学時は60人ほどいた学院の生徒も17人に減り、ジャッキーは最年長となっていた。そして契約の10年が経ち、自由を求めジャッキーは学院を後にする。
実際はジャッキーが9歳のころに出演した1963年の『秦香蓮』のあとも、『大酔侠』(1966年)や『龍門客棧』(1967年)などの作品に出演していたようですが、ここではスルーして、その後の作品について調べてみます。ちなみにサモハンが学院を去ったのは18歳のころで1966年頃と言われています。
各作品を調査
荒江女俠
まず最初の作品は、鄭佩佩(チェン・ペイペイ)、岳華(ユエ・ホァ)主演のショウブラザーズ作品『荒江女俠』で、ジャッキーチェンが他の学院メンバーらとともに乞食の子供役で端役出演しています。
香港公開は1970年02月27日で、1969年1月にはすでに撮影中だったみたいです。
侠女
続いては、アジアの巨匠・胡金銓(キン・フー)監督による『侠女』で、サモハン・キンポーのほか、ジャッキーチェン、ユンピョウが揃ってスタントで参加しています。
香港では1971年11月に公開されてますが、台湾では1970年に公開されており、新聞記事によると1968年から1970年まで3年がかりで製作されていたようです。実際にジャッキーらが関わっていたのは1968年あたりのような気がします。
鬼怒川
続いては、茅瑛(アンジェラ・マオ)主演のゴールデンハーベスト作品『鬼怒川』で、武術指導が韓英傑(ハン・インチェ)とサモハン。
香港公開は1971年05月ですが、新聞記事によると1970年07月には撮影が開始されているようです。
出演経緯はサモハン絡みでしょうか。
刀不留人
次の作品も、ゴールデンハーベスト作品で苗可秀(ノラ・ミャオ)主演の『刀不留人』。『鬼怒川』と同様に武術指導が韓英傑(ハン・インチェ)とサモハン。
こちらも香港公開は1971年04月ですが、新聞記事によると1970年08月に撮影が開始されているようです。
こちらもやはり出演経緯はサモハン絡みかもしれません。
おそらくここまでが、ジャッキーが学院を去る前に出演(子役は除く)していた作品だと思われます。
今回の対象作品まとめ
今回は4作品と少ないですが、まとめると次のようになります。
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