ついに禁断(?)の領域に。ファンの中でも諸説入り乱れる羅維(ロー・ウェイ)時代のジャッキー作品の製作時期を掘り下げるべく、1976年の『新精武門』から1982年『ドラゴンロード』の頃までのジャッキーチェンの足取りを「自伝」の記述をベースに当時の香港の新聞を資料として再検証してみました。
後編の第1回は自伝での製作順やストーリーなど基礎情報をまず最初にまとめてみようと思います。
自伝での70年代後半ジャッキーストーリー
自伝「I AM JACKIE CHAN―僕はジャッキー・チェン」でのこの頃の記述を簡単にまとめると、
1975年、オーストラリアにいたジャッキーのもとに陳自強(ウィリー・チェン)から主演作のオファーの電話があり、香港へ戻る。
設立3週間の羅維影業(ロー・ウェイ・プロダクション)へ行き、契約。
ブルース・リーの『ドラゴン怒りの鉄拳』の続編『レッドドラゴン』を同じく羅維監督で撮影。
1976年7月に『レッドドラゴン』が公開されるが興行成績が芳しくなく羅維が激怒。
『レッドドラゴン』の興行成績に嫌気がさした羅維は次回作『少林寺木人拳』の監督を若い陳誌華(チェン・シーホワ)に任せる。
1976年11月に『少林寺木人拳』が公開。またしても興行成績が芳しくなく、羅維のジャッキーに対する信頼を失い始めていた
次回作『ファイナル・ドラゴン』では、コストを抑えるために韓国で撮影、また興行成績を良くするため王羽(ジミー・ウォング)を主演に招くが、すでに王羽の人気も落ち目になっており、その効果なく失敗。
続いて『成龍拳』を製作するがまたしても失敗。
暗くシリアスなタイプではなくもっと軽い役が欲しいと要望し『蛇鶴八拳』を撮影。しかし羅維は気に入らない。
この頃、映画業界ではジャッキーは「興行成績を毒する俳優」というイメージを持たれており危機感がつのる。
陳自強の働きかけで次回作『カンニングモンキー天中拳』はジャッキーの友人でもある陳誌華監督でコメディー作品に。
しかし、『天中拳』試写時に羅維が激怒しお蔵入り(1980年に香港で公開)。
すぐに新しいプロジェクトである3D映画『飛龍神拳』の撮影に入る。
続けて、本物のユーモアを見せてやると羅維自身が脚本に携わった自信作『拳精』を撮影。
しかし、『拳精』は大失敗。配給してもらうのが無理でお蔵入り。
そのあとの『龍拳』もお蔵入り。
羅維影業(ロー・ウェイ・プロダクション)の資金が底をつきピンチに。
新興会社の思遠影業公司(シーゾナル・フィルム)の呉思遠(ウー・シーユエン)からジャッキーを3か月レンタルしたいとオファーがあり、『スネーキーモンキー蛇拳』を撮影。
これが1978年3月に公開され大ヒット。
続けて同じく呉思遠のもとで製作した『ドランクモンキー酔拳』は、78年10月に香港で公開され、さらなる大ヒットを遂げジャッキーは一躍スターに。
『酔拳』ヒット後、しばらくして陳自強から連絡があり、羅維との契約のラスト1本の撮影のため、しぶしぶ韓国へ。
羅維のやり方に納得が出来ず撮影現場から失踪、監督を自らがつとめることで納得し『クレージーモンキー笑拳』を撮影。
これが1979年3月に公開され、またもや大ヒット。
その後、羅維と契約問題でモメにモメ、結局ジャッキーは羅維の空白の契約書にサインをしてしまう。
羅維は次の作品は『醒拳』だと発表。
羅維の策略により1000万HKドルを支払わない限り羅維の元を離れられなくなってしまったジャッキーだったが、ジャッキーに恩義のある契約係の支配人が訪ねてきて羅維の契約の不正を証言すると申し出てくれる。
その後、ショウブラザーズが500万HKドルを提示したが、世界戦略を想定して420万HKドルを提示したゴールデンハーベストとの契約を決意する。
ゴールデンハーベストでの主演第1作目『ヤングマスター』を撮影するジャッキーの周りで放火や悪質ないやがらせなど次々と不審な事件が起き始める。
ある日ギャング(トライアッズ)がジャッキーのもとを訪れ、羅維のもとに連れて行かれ新たな契約を迫られる。
しかしその後ゴールデンハーベストのレイモンド・チョウが1000万HKドルを肩代わりし、トライアッズとの問題はジミー・ウォングが間に入り解決の方向へ向かう。
『ヤングマスター』が公開され、1000万HKドルの大ヒット。ジャッキーはアメリカへと飛び立った。
アメリカで英語の勉強をしながら、次回作のためローラースケートの練習をしている時に、テレサ・テンと出会う。
ハリウッド第1作目の『バトル・クリーク・ブロー』を撮影後、テレビや雑誌のインタビューを多くこなすも興行的には成功せず、次の『キャノンボール』は興行的にはアメリカや日本で大ヒットしたものの、香港では成功せずジャッキー自身もとうてい満足できる作品では無かった。
アメリカから大きな不満と憤りを抱えて香港に戻ったジャッキーは取り憑かれたように次回作『ドラゴン・ロード』の撮影にのめり込む。
予定を資金的にも時間的にも大きくオーバーして『ドラゴン・ロード』は完成するも香港では大失敗の結果となる。
また、自伝「愛してポーポー」では、
香港へ戻ったジャッキーは、羅維と4年間で12本の出演契約。『新・精武門』の主演をやることになり、「成龍」を名乗ることに。映画はまあまあのヒット。
続けざまに、『少林寺木人拳』と『蛇鶴八歩』に主演。俳優として皆の注目を集め、はじめて「スター」と呼ばれることに。
その後数本の映画に主演するがヒットに恵まれず、父親との約束の2年が過ぎたため、一旦オーストラリアへ行き父親へボルボの新車をプレゼント。
少しづつジャッキーの収入は増えて行ったものの、大ヒットには程遠く、いつまでも同じことの繰り返しにジャッキーの映画に対する興味が薄れつつあった頃、プロデューサーの呉思遠(ウー・シーユエン)から映画の主演を誘われる。
そうして主演した『スネーキーモンキー蛇拳』が大ヒット、続けて作られた『ドランクモンキー酔拳』も大ヒットを記録する。
次の『クレージーモンキー笑拳』でははじめて監督も担当した。
良い仕事をしたいという欲が出てきたジャッキーは次の新天地を求めて、国際的に映画を配給しているゴールデンハーベストの仕事をするようになり、『ヤングマスター』の撮影に取り掛かる。
『ヤングマスター』のあとに、羅維の『醒拳』を撮影予定だったがキャンセルにアメリカへ渡ってしまう。
テキサスで『バトル・クリーク・ブロー』を撮り終えた後も英語の勉強をしながら『キャノンボール』にも出演。
1年ほどアメリカへ滞在後、羅維との問題にケリがついたジャッキーは香港に戻り、『ドラゴン・ロード』を台湾で撮影しヒットさせる。
と、こちらは大分シンプルにまとめられています。
本当にジャッキーが勘違いをしているのか、それとも話として面白い(説得力のある)文章にするために故意に脚色されたのかはわかりませんが、製作順については若干、実際とは異なる部分があるようです。
70年代後半~80年代前半のジャッキー作品一覧
次は、自伝「僕はジャッキーチェン」内での製作順にならべたジャッキー作品一覧表です。公開日はハッキリしているもので最も古い年月のものを記述しています。
順 | 邦題 | 原題 | 公開日 | 製作 | 監督 | 武術指導 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | レッド・ドラゴン 新・怒りの鉄拳 | 新精武門 | 1976-07-08 (香港) | 羅維影業 | 羅維 | 韓英傑 |
2 | 少林寺木人拳 | 少林木人巷 | 1976-11-10 (香港) | 羅維影業 | 羅維 執行導演:陳誌華 | 成龍 金銘 |
3 | ファイナル・ドラゴン | 風雨雙流星 | 1977-05-12 (韓国) | 羅維影業 | 羅維 | 陳信一 |
4 | 成龍拳 | 劍花煙雨江南 | 1977-07-22 (香港) | 羅維影業 | 羅維 | 陳信一 成龍 |
5 | 蛇鶴八拳 | 蛇鶴八步 | 1977-11 (香港プレ) | 羅維影業 | 陳誌華 | 成龍 杜偉和 |
6 | カンニング・モンキー 天中拳 | 點止功夫咁簡單/一招半式闖江湖 | 1978-11-11 (韓国) | 羅維影業 | 陳誌華 | 成龍 |
7 | ジャッキー・チェンの飛龍神拳 | 飛渡捲雲山 | 1978-04-27 (香港) | 羅維影業 | 羅維 | 成龍 鹿村泰祥 |
8 | 拳精 | 拳精 | 1978-11-23 (香港) | 羅維影業 | 羅維 | 成龍 |
9 | 龍拳 | 龍拳 | 1979-01 (台湾) | 羅維影業 | 羅維 | 成龍 |
10 | スネーキー・モンキー 蛇拳 | 蛇形刁手 | 1978-02-04 (香港プレ) | 思遠影業 | 袁和平 | 徐蝦 袁和平 |
11 | ドランク・モンキー 酔拳 | 醉拳 | 1978-09-23 (台湾) | 思遠影業 | 袁和平 | 徐蝦 袁和平 |
12 | クレージー・モンキー 笑拳 | 笑拳怪招 | 1979-01 (台湾) | 豐年影業 | 成龍 | 成龍 |
13 | ヤング・マスター 師弟出馬 | 師弟出馬 | 1980-02-09 (香港) | ゴールデンハーベスト | 成龍 | 成龍 馮克安 |
14 | バトル・クリーク・ブロー | 殺手壕 | 1980-08-29 (アメリカ) | ゴールデンハーベスト | ロバート・ クローズ | 成龍 |
15 | キャノンボール | 炮彈飛車 | 1981-07-19 (アメリカ) | ゴールデンハーベスト | ハル・ ニーダム | — |
16 | ドラゴン・ロード | 龍少爺 | 1982-01-21 (香港) | ゴールデンハーベスト 羅維影業 拳威影片 | 成龍 | 成龍、成家班、元奎、馮克安 |
また、自伝の本文中には出てきません(『醒拳』と巻末は除く)が、以下の作品もこの時期にジャッキーチェンが関与した作品として(本当にジャッキーが関与したのかも含めて)合わせて検証していく予定です。
原題 | 邦題 | 公開日 | 製作 | 監督 | 武術指導 | 成龍 |
---|---|---|---|---|---|---|
三德和尚與舂米六 | 少林寺怒りの鉄拳 | 1977-08-25 (香港) | ゴールデンハーベスト | 洪金寶 | 洪金寶 助:成龍 | 武術指導アシスタント |
龍蛇俠影 | (未公開) | 1977-05-13 (台湾) | 中外電影 | 陳誌華 | 何維雄 | カメオ出演 |
舞拳 | (未公開) | 1980-07-04 (台湾) | 不明 | 陳誌華 | 成龍 | 武術指導 |
百戦保全河 | (未公開) | 1978-08-26 (台湾) | 製片協會 香港南海影業 | 羅維 ほか11名 | 成龍、 韓英傑、 陳世偉、 游天龍 | 武術指導 |
搏命單刀奪命槍 | 燃えよデブゴン 豚だカップル拳 | 1979-08-09 (香港) | 嘉寶影業 | 劉家榮 | 洪金寶、 劉家榮、 助:元彪 | 武術指導アシスタント |
三十六迷形拳 | (未公開) | 不明 | 合眾電影 | 陳誌華 | 成龍 | 武術指導 |
龍騰虎躍 | ジャッキーチェンの醒拳 | 1983-03-04 (香港) | 羅維影業 | 陳全 | 徐少雄 | (主演) |
上記の作品を関係者別に簡単にまとめたものが下図になります。
次章から個別の作品について順に見て行こうと思います。
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