今回は、時期が特定しにくい『蛇鶴八拳』と『カンニングモンキー天中拳』をひとまず後回しにして、特定しやすい『飛龍神拳(飛渡捲雲山)』と『スネーキーモンキー蛇拳(蛇形刁手)』の2作品を最初に見て行こうと思います。時期的には1977年夏から1978年初めごろまでのジャッキーの動きになります。
自伝の記述を確認
自伝「僕はジャッキーチェン」の今回の範囲を要約すると次のようになります。
『蛇鶴八拳』に続いて出演した『カンニングモンキー天中拳』だったが試写を見て激怒した羅維によりお蔵入りさせられてしまう。
そのあとすぐに羅維が持ってきた新しいプロジェクトは3D作品の、『飛龍神拳』だったが、ジャッキーと羅維の関係は悪化したままで、撮影中は直接口をきかず、撮影監督を通して演技指導をする状態になっていた。
次に羅維は自身も脚本に携わった喜劇の『拳精』を撮影するも、配給先が決まらずお蔵入り。
続けて、一転してシリアス調の『龍拳』に主演するもこちらも配給が決まらず、ついに羅維プロの資金は底をついてしまう。
しかし、配給会社がジャッキーチェンの映画には手を出さないという苦境に陥ったジャッキーのもとに救世主が現れる。 独立プロで、若いタレントの起用に定評のある呉思遠(ウー・シーユェン)からジャッキーのレンタル要請があったのだ。
ジャッキーの顔も見たくなかった羅維はこれを承諾、ジャッキーは学院のビッグブラザーでもある袁和平(ユエン・ウーピン)監督のもと、『スネーキーモンキー蛇拳』を撮影、そして香港のみならずアジア全域で最大のヒットを飛ばす。
また、「愛してポーポー」では、この時期の記述を以下のように要約できると思います。
父親に新車をプレゼントするためにオーストラリアへ1週間滞在したジャッキーは香港へと戻る。
ヒット作に恵まれず、映画に対する興味が薄れかけていたころプロデューサーの呉思遠(ウー・シーユェン)から『スネーキーモンキー蛇拳』のオファーがあり、受けることに。
以前のようにおカネを稼ぐことやヒットさせようという私欲がなくなっていたジャッキーは、監督やプロデューサーのいうままに素直に撮影に参加、失いかけた自信も少し回復していった。
そして『蛇拳』と続く『酔拳』で大ヒットを飛ばし、やっと一人前になった気がしたジャッキーが最初にしたことは、もうけたお金をまとめてオーストラリア両親に送ることだった。
どちらも共通していえることは、羅維のもとで出演をかさねたもののヒットせず、最後に『蛇拳』、『酔拳』でブレイクするというストーリーになっていることです。
しかし実際は『蛇拳』に関しては、『拳精』や『龍拳』よりも大分前に撮影されていたようですね。
『飛龍神拳』直前の状況
前章の『成龍拳』が3月中頃に撮影が終わり、ジャッキーは『蛇鶴八拳』の撮影などをしていましたが、7月のはじめ頃から1週間、オーストラリアの両親のもとに行っています。
- 新聞記事:1977年06月29日『華僑日報』|成龍、昨晩オーストラリアへ
ビザの関係や両親に会うためだったようですが、まさしくこれが『愛してポーポー』にも書かれている内容と合致してますね。この時の記事にはボルボの新車を買った話は出てきませんが、1976年の11月の記事に、ギャラを積み立てていて両親に新車を買ってあげたいということが記事になっていました。
- 新聞記事:1976年11月12日『華僑日報』|成龍、ギャラ積み立てで両親に新車購入を希望
『愛してポーポー』には結局これが使い込まれていて、半分しか貰えなくてムッとした(その後残り半分もちゃんと貰った)と書かれていましたね。
ただ、ここでちょっと気になるのは77年6月の記事内にある「羅維と2年契約」という記述。これは単に2年の契約をしたということなのか、2年経ったということなのかわかりませんが、『愛してポーポー』では羅維のもとに来てから2年が経ったと書かれており、そうするとジャッキーが香港に来たのは1975年の夏ごろということになってしまい、本連載の前編で検証した内容と食い違ってしまいます・・・。
が、ここでまた戻っても答えは出ないので、見なかったことにして次に進みます。(汗)
さて、このオーストラリアから香港に戻ったジャッキーは『飛龍神拳』の撮影に合流(詳しくは後述)するわけです。
いまや何でもかんでも3Dブームですが、1977年4月1日に『空飛ぶ十字剣』(原題:千刀萬里追)という映画が香港で公開され、200万HKドルを稼ぐヒット(年間総合17位)を飛ばします。
台湾作品ではありますが、中国人による初の3D映画となります。この頃までに香港ではこの『空飛ぶ十字剣』ともう1本洋画(『悪魔のはらわた』かな?)の2本が3D映画として公開されていたようです。
おそらくこの『空飛ぶ十字剣』のヒットを受けて、羅維の脳内で何かが弾けたに違いありません。多額な製作費をかけて『飛龍神拳』の製作に乗り出すことになります。
飛龍神拳/飛渡捲雲山
羅維監督による古龍シリーズ第3弾。主演はジャッキーのほか、田俊(ジェームス・ティエン)と梁小龍(ブルース・リャン)。武術指導はジャッキーと鹿村泰祥が担当している。
羅維にとっては相当意気込んで作った作品のようで、かなりの製作費(3Dのため)をかけましたがなかなか配給が決まらず、やっと公開されたものの散々たる結果に終わってしまった悲しい作品でもあります。
『飛龍神拳』の手掛かりとなる新聞記事
作品名がはじめて記事になったのは77年5月30日だと思われます。これから『飛龍神拳』の準備に取り掛かるようです。
- 新聞記事:1977年05月30日『工商日報』|『飛渡捲雲山』の撮影準備
続いては6月14日の記事で、これから羅維は台湾に行って『飛龍神拳』の準備を進めるとあります。
また、主演女優として汪萍が内定しており、ジャッキーや田俊の起用は決まっているようですが、もうひとりは選任中とあります。(もしくは秘密?)これはおそらく梁小龍のことでしょうね。
- 新聞記事:1977年06月14日『工商日報』|『飛渡捲雲山』の撮影準備とキャスト
その後も新聞記事で6月30日にクランクインするような記事もいくつかありましたが、最終的には下の記事になるように1977年7月5日に正式に撮影が開始されたようです。
- 新聞記事:1977年07月04日『工商日報』|7月5日に『飛龍神拳』撮影開始
この記事の直前の7月2日には香港で『成龍拳』がプレ上映されましたがあまり評判が芳しくなく羅維は不機嫌になっているようです。
この『飛龍神拳』ですが、3D作品のため製作費が膨大でなんと215万HKドルの予算だったようです。
- 新聞記事:1977年07月07日『工商日報』|製作予算は215万HKドル
たしかに年間TOPにでもなれば1000万HKドル近い興行収入になるものの、最低限10位以内のヒットにならなければ200万HKドルのヒットは望めません。自伝にあるような羅維プロの資金難を引き起こしたのはまさにこの作品と言えるかもしれません。
成龍、陳自強、陳誌華の3ショット写真
上の記事では、オーストラリアへ1週間行っていたジャッキーが香港に戻ってきて、さらに台湾へ行き『飛龍神拳』の撮影に合流したようです。
そして7月18日の記事では『飛龍神拳』の撮影がひと段落したようなことが書かれています。
- 新聞記事:1977年07月18日『華僑日報』|撮影がひと段落
具体的なクランクアップの時期は書かれていませんが、他の作品の予定や製作費の事を考えると短期集中で7月いっぱい(長くても8月上旬)には撮影は完了していたと思われます。
そのほかの『飛龍神拳』がらみの記事としては、あの巨人合唱団による主題歌レコーディングの記事(下)や、
- 新聞記事:1977年07月12日『華僑日報』|主題歌レコーディング
翌年2月の記事で、まだ未上映の『飛龍神拳』、器材に50万HKドル、立体メガネに20万HKドルの費用がかかることが書かれています。
- 新聞記事:1978年02月14日『工商日報』|器材50万HK$、メガネ20万HK$
ん?実際には215万HKドルもかかって無いんじゃ・・・まぁそれでも高額な費用には変わりません。
その後、4月にようやく公開まで辿りつきますが、結果は78万HKドルの興行成績で年間総合102位と大コケしてしまいます。
あと、記事は省略しますが、後々、呉思遠が羅維から3Dの器材一式を借りて3D作品を撮影するという話もあったようです。
『飛龍神拳』の公開情報
『飛龍神拳』は1978年4月27日に香港で公開されています。完成後なかなか配給が決まらなかったようですが、3月に公開された『蛇拳』のヒットにより公開が決定したのかもしれませんね。
韓国での公開は1981年8月1日で、日本では結局劇場公開されませんでした。
興行結果は、多額の製作費をかけ、『蛇拳』ヒット後に公開されたにもかかわらず78万HKドルで1978年の総合102位という結果に終わっています。
『飛龍神拳』のロケ地
『飛龍神拳』は全編台湾にて撮影されていたようです。よく見ると『ファイナル・ドラゴン』でも見かけた風景などが出てきます。
季節的にも夏場の台湾と言う感じで特に問題は無さそうです。
まず冒頭のジャッキーのアクションシーンの場所は、『ファイナル・ドラゴン』で王羽が岩の上で寝ているシーンと同じ場所です。
その後の街中のシーンは電影文化城っぽいです。屋敷のシーンも良く使われている場所です。
その後は山道や岩場など作品独特のシーンが続き、寺に辿りつきます。
この頃のジャッキー映画にしては珍しく、他作品とあまり被らない場所で撮影されています。
『飛龍神拳』でのジャッキーチェンの顔と髪型
本作品の撮影が始まる前にふたたびジャッキーの顔に変化が。具体的にどこというのが旨く言えないのですが、あきらかに変化しています。武侠メイクなので、わかりづらいのですが、顔のラインもスッキリした印象です。この作品でジャッキーは脱いでいないので体格はわかりませんが、顔のスッキリ感はもしかしたらシェイプアップのせいかもしれません。
『飛龍神拳』まとめ
『飛龍神拳』に関する情報をまとめると以下のようになります。
原題 | 飛渡捲雲山 |
---|---|
邦題 | ジャッキー・チェンの飛龍神拳 ヤングボディガード 神拳 ジャッキー・チェンの燃えよ!飛龍神拳/怒りのプロジェクト・カンフー |
監督 | 羅維 |
武術指導 | 成龍/鹿村泰祥 |
新聞記事 |
|
ロケ地 | 全編夏の台湾で撮影 |
成龍の顔・髪 | 顔:よりシャープに 髪:判別不可、直前の新聞記事では肩ぐらいまでの長さ |
撮影時期 (推定) | 1977年7月5日~20日頃(超短期集中して撮影されたと思われる) |
公開日 | 1978年4月27日(香港)/1981年8月1日(韓国) |
興行成績 | HK$ 775,522(1978年香港総合ランキング102位) |
スネーキーモンキー蛇拳/蛇形刁手
ジャッキーが呉思遠率いる独立プロのシーゾナル・フィルムズにレンタルされて撮影された袁和平(ユエン・ウーピン)監督作品。
自伝ではかなり後期に製作されたように書かれているこの作品ですが、実際には羅維時代のほぼ中期に作られていたようです。
『蛇拳』の手掛かりとなる新聞記事
はじめて『蛇拳』関連の記事が出たのが、まだ『飛龍神拳』撮影中の77年7月で、どうやら『成龍拳』を見た呉思遠が羅維にレンタルの交渉をするため台湾へ行ったようです。
- 新聞記事:1977年07月21日『華僑日報』|成龍レンタルの記事1
また、記事は省略しますが、その後の9月の記事では袁和平が『神腿鐵扇功』の武術指導のあとに初監督する作品として『蛇拳』が紹介されていますが、成龍に関する記述はまだありませんでした。
この後、しばらく『蛇拳』関連の記事は出てきませんでしたが、11月に再度ジャッキーレンタルの記事が出ます。
- 新聞記事:1977年11月07日『工商日報』|成龍レンタルの記事2
1977年11月に『蛇鶴八拳』のプレ上映が香港で行われたのですが、再びこれを見た呉思遠が羅維にジャッキーのレンタルを申し込んだようです。
自伝『僕はジャッキーチェン』では3か月で60,000万HKドルのレンタル料と書いてありましたが、ここでは100,000HKドルと書かれているようです。(実際のところは不明です。)
再び『蛇拳』関連の記事はしばらく出てきませんでしたが、12月26日の記事(省略)に石天の記事で『蛇拳』撮影中とあり、続いての30日の記事では袁和平が最近『蛇拳』の撮影を開始したという記事が載っていました。
- 新聞記事:1977年12月30日『工商日報』|袁和平、最近『蛇拳』撮影開始
そして、2月1日の記事で『蛇拳』は1月26日に撮影終了とあります。
- 新聞記事:1978年02月01日『工商日報』|袁和平、1月26日で『蛇拳』撮影終了
自伝では撮影期間は3か月とありましたので、ここから遡ると開始は10月末ということになりますが、11月上旬の『蛇鶴八拳』のプレ上映後にジャッキーはレンタルされているはずですので、実際は3か月もかかっていないようです。
12月30日の最近撮影開始という曖昧な表現はどうとでも取れるのですが、なにやらジャッキーは『蛇拳』撮影時には功夫の練習を相当したようなことも書かれていましたので、それも含めて早くて11月中ごろからが『蛇拳』の製作開始時期じゃないかと思います。
『蛇拳』の公開日
『蛇拳』は完成直後の1978年2月4日に急遽プレ上映されており、すでにこの時に200万HKドル以上の興行成績が見込まれていたようです。すごいですね~。
よっぽどプレ上映の評判が良かったのか、呉思遠による成龍レンタル成功というような記事も2月中にすでに載っています。
下は香港公開時の3月1日の新聞広告ですが、成龍のネームバリューはまだやはり無いに等しいようですね。
次の新聞広告は韓国で『酔拳』のヒット後の1979年12月21日に公開された時のものです。
本公開はその約1か月後の1978年3月1日。結果、3日で100万HKドルを稼ぎ出し、最終的には270万HKドルで年間総合13位のヒット作となります。
『蛇拳』のロケ地
『蛇拳』はおそらく香港中心に撮影されていると思いますがハッキリとはわかりません。マカオや台湾でも撮影されていたかもしれません。
『酔拳』もそうなのですが、呉思遠の成龍作品は撮影中の情報がほとんど無く、極秘で進められていたようで、メディア露出の多い羅維の戦略とは違ったようです。
『蛇拳』でのジャッキーチェンの顔と髪型
これ以降のジャッキー作品は、今までと違ってコミカルな役回りが多いためジャッキーの作中での表情が豊かになります。そのためか同一作品で同時期に撮影された作品の中でもジャッキーの顔が随分と違って見えることが多々あります。
本作品の中でも、かなり垢抜けない表情のジャッキーが多い中で、一瞬、後の『酔拳』や『龍拳』の時のような表情を見せる瞬間もあります。ちなみに下右の画像は実際の撮影中、黄正利に歯を折られた後のものです。
折られる前の歯の状態ですが、前歯の並びは相変わらず揃ってませんが、前歯右の隙間は無くなっているかもしれません。
『蛇拳』まとめ
『蛇拳』に関する情報をまとめると以下のようになります。
原題 | 蛇形刁手 |
---|---|
邦題 | スネーキー・モンキー蛇拳 |
監督 | 袁和平 |
武術指導 | 袁和平/徐蝦 |
新聞記事 |
|
ロケ地 | 全編香港で撮影 |
成龍の顔・髪 | 顔:むくんでいるイメージ、場面によっては後期のジャッキーに見える時もあり 髪:ウェーブ短髪、その中でも短い時と長い時あり |
撮影時期 (推定) | 1977年11月中旬(もしくは12月)から1978年1月26日 |
公開日 | 1978年3月1日(香港) ※1978年2月4日(香港プレ上映) |
興行成績 | HK$ 2,708,748(1978年香港総合ランキング13位) |
今回の対象作品まとめ
1977年夏から1978年初めまでで、比較的撮影時期が特定しやすい2作品をまとめたイメージ図がこちらになります。
商品情報
~追記です~
室内のラストバトルでは二人の頭領が戦いますが、鹿村さんの顔が見えない時はジャッキーが演じていたそうですね。
あっ、これってジャッキー? とか想像しながら見るのも面白いかもです^^
情報ありがとうございます。
何かで私も聞いた(見た)ことがあるかもしれません。
ジャッキーが自分の作品で、自分以外のスタントをやってる
作品って結構ありますよね~
Blu-rayは購入したっきりまだ観てませんが、
画質が良くなっていれば見つけやすくなってるかもしれませんね♪
飛渡~の撮影時、ジャッキーと共同で武術指導をしていた鹿村さんは次の様に語っています。
「ギャンブルが好きな青年だよ。」
「梁小龍は機敏なのでコマ落としは必要無いがジャッキーは遅かったので、二人が同時に映る時は~云々」
などなど・・・
以上、『怒れるドラゴン 不死身の四天王』 DVDオーディオコメンタリーからでした。
ミヤシさんこんにちは。
やはりギャンブル好き・・・(^_^;)
これは面白い話ですね。
機会があったらDVDチェックしてみます。
情報ありがとうございました~。