今回は『拳精』・『龍拳』・『酔拳』の撮影を行ったあとの78年秋から、『クレージーモンキー笑拳』の撮影が終了し、羅維との契約問題がいよいよ本格的に拗れ出す直前の79年初頭のジャッキー・チェンの動きを追っていきます。
自伝の記述を確認
自伝「僕はジャッキーチェン」の今回の範囲を要約すると次のようになります。
『スネーキーモンキー蛇拳』に続いて、羅維の元から一時的に離れ、呉思遠のもとで製作した『ドランクモンキー酔拳』の大ヒットでジャッキーは一躍大スターとなっていた。
お金と名声を手に入れ舞い上がるジャッキーのもとに、久しぶりにウィリーから連絡が入り、羅維との契約の残り1本の製作に入らなければならないことをあらためて認識させられる。
ウィリーはあと1本で契約が満了しても、また新たな契約を迫られることを見越して準備を始める。
ジャッキーは羅維の次回作の撮影のため韓国へ。
しかし、ヒットはラッキーだったとジャッキーの実力を決して認めない羅維と折り合わず、ジャッキーは撮影現場を一人で立ち去ってしまう。
言葉も十分にわからない韓国でジャッキーは一人、宿に。それはジャッキーが望んでいた「自由」ではあったが、現場に残してきたスタッフや関係者のことが気にかかりスタッフに電話を入れる。
そして、自分は無事だが現場に戻るつもりはないことと現在の居場所を告げた1時間後、ジャッキーのもとにマダム(羅維の奥さん)がやってくる。
マダムと話し、思い直したジャッキーは撮影現場に戻ることに。そして、自身の初監督作品として『クレージーモンキー笑拳』を製作するのだった。
ジャッキー自身は『笑拳』を『酔拳』にくらべてムラのある作品だと思っていたが、映画は大成功。これまでで最大のヒット作となる。
羅維は一転してジャッキーのことを「息子」「誇りと喜び」と呼ぶようになり、スポーツカーまで買い与えたが、給料は相変わらず6,000HKドルだった。
羅維にしてみれば、契約上は3,000HKドルのところを特別に倍払っていると言う「驚くべき寛大さ」を示しているつもりだったのだ。
その後の羅維との契約交渉で、映画1本のギャラ10万HKドル、他に好条件の話があった場合の契約破棄を認めさせたウィリーだったが、迂闊にもジャッキーが空白の契約書にサインをしてしまう。
羅維の次回作が『醒拳』だと発表があったころ、ウィリーはさらなる好条件を獲得するため、ゴールデンハーベストやショウブラザーズといった大手のスタジオとも交渉を重ねていたが、空白の契約書にサインしてしまったことが災いし、羅維との契約問題はまさに泥沼の展開へと発展していくのだった・・・
すでに、『蛇拳』のヒット後、羅維によるジャッキーの囲い込みは始まっており、『酔拳』で呉思遠にジャッキーを貸し出す時も色々とゴタゴタしていたことは前章でも触れたとおり。
『クレージーモンキー笑拳』が撮影された頃には、まさにジャッキーと羅維、両社の関係の悪化はピークに達していたと思われ、その後いわゆる『ジャッキージャック事件』とも言われるジャッキーの失踪事件へと発展していきます。
ジャッキー・チェンの醒拳(原題:龍騰虎躍)
香港では83年に、日本ではジャッキー映画が4作品も公開された人気絶頂期の85年の翌86年3月に公開された問題作。
未完になっていた作品をジャッキーの過去作品からの流用シーンと『笑拳』の未使用フィルム、ジャッキーのダブリを使用して無理やり作りあげられた作品です。
まず、『醒拳』という邦題が混乱を招く一因ともなっているのですが、自分自身の頭を整理するためにもちょっと流れをおさらいしておきます。
- 自伝で、ジャッキーが『酔拳』の後に羅維の次回作の為に韓国へ行きますが、この次回作と言うのが『鬼手十八翻』という作品。自伝では詳しく書かれていませんが、実際に撮影していたと思われる。(詳しくは後述)
- その後、ジャッキーは自身で監督をすることになり、製作されたのが『笑拳怪招』、つまり『クレージーモンキー笑拳』。
- 時期に羅維の次回作として発表されたのが、『醒拳』で、こちらはスチル撮影のみで本編の撮影はまともにされてはいない。
- その後、ジャッキーはゴールデンハーベストへ。結局『醒拳』は撮影されることなく未完に終わる。
- 1983年に羅維は未使用フィルムなどを使用して、『龍騰虎躍』、つまり『ジャッキー・チェンの醒拳』を完成させ公開する。
結論から先に言うと、『龍騰虎躍(ジャッキー・チェンの醒拳)』で使われているジャッキーのシーンは、『拳精』『龍拳』『笑拳』の公開済みのシーンと、『笑拳』での未使用シーン、あとは『鬼手十八翻』として撮影されていたシーンから成り立っていると私は思っています。
つまり、ご存知の方も多いと思いますが『龍騰虎躍(ジャッキー・チェンの醒拳)』は本来の『醒拳』ではないということですね。ややこしい邦題が必要以上に紛らわしくさせています。
そもそもこの『鬼手十八翻』という作品自体、日本ではほぼ触れられることはなく、私も非常に勉強させていただいた醒龍さんの運営しているサイト「電影フリークス」でその存在を知るまでは全く聞いたことの無い作品名でした。
まずは、製作時期をより細かく探るために『龍騰虎躍(ジャッキー・チェンの醒拳)』で使われているジャッキーのシーンをひとつひとつ見ていこうと思います。
『ジャッキー・チェンの醒拳』中のジャッキー出演場面検証
シーン1:『鬼手十八翻』-自宅で、田俊と韓国
まず本作品で田俊とともにジャッキーがはじめて登場するシーンですが、これはおそらく韓国の民俗村だと思われます。
こちらは同シーンのジャッキーの顔のアップ画像です。これは痣だらけなのか汚れだらけなのかちょっと良く分かりませんが、『龍拳』や『酔拳』でも見られる右眼下の痣と思われるものも確認できます。髪の長さから言ってもその頃に撮影されたものと推測されます。
シーン2:『笑拳』(未使用シーン)-仕事探し、石天と台湾
その後、仕事を探して石天のもとを訪れるシーンが、おそらく唯一の『笑拳』の未使用シーンだと思います。もともとはジャッキーが石天の顔を見て驚くことでもわかるように『笑拳』で出てくる葬儀屋と兄弟という設定だったのでしょう。髪も多少長めで、『笑拳』の時と一致しています。
シーン3:『鬼手十八翻』-賭け事、韓国
さて、次にジャッキーが出てくるシーンは、寺院のところで賭け事をするシーンですが、ここは韓国の南漢山城・守禦将台だと思われます。
この時のジャッキーの顔でも、右眼下の痣がバッチリ確認できます。
シーン4:『鬼手十八翻』-帰宅と移住、田俊と韓国
賭けごとを終えて家路につくところ。まさにここは韓国の民俗村だと思われます。きっと、本来のストーリーではこのシーンのあとに「シーン1」が来るんでしょうね。
その直後に田俊と移住するシーンでもジャッキーの右眼下の痣が確認できます。
シーン5:『鬼手十八翻』-乞食団と戦闘、陳慧樓・林銀珠と台湾
その後、 惠天賜や韓國材、偽ジャッキーなどの登場が続き、再びジャッキー登場。ここでのジャッキーには目立った顔の傷はありません。場所は台湾だと思われます。
そして、今度は店の中で林銀珠と戦闘、陳慧樓と出会う。先ほどと同時期の撮影でしょうね。この後のシーンでもわかりますが、ここでの陳慧樓の足は不自由ではないため、『笑拳』の未使用シーンではなく『鬼手十八翻』のものだと推測できます。(また、林銀珠のキャラ設定が違うため『龍拳』でも無い。)
シーン6:『鬼手十八翻』-林の家の外、林銀珠と台湾
そして最後が、林銀珠とのシーンでおそらく先ほどの「シーン5」と同時期の撮影だと思われます。
以上が新規のジャッキー出演場面になります。この他は、公開済み作品の使いまわしとダブルによる偽ジャッキーということです。
こうして見ると、新規場面は以下の3つの時期に撮影されたもので構成されていると推測できます。
- 『鬼手十八翻』として韓国で撮影された、ジャッキーの右眼下に痣がある時期。(シーン1、3、4)共演者は田俊など。
- 『鬼手十八翻』として台湾で撮影されたと思われる、ジャッキーの顔に痣が無い時期。(シーン5、6)共演者は陳慧樓・林銀珠など。
- 『笑拳怪招』として台湾で撮影されたと思われる、ジャッキーの髪がちょっと長めの時期。(シーン3)共演者は石天。
まず、一つ目の痣がある時期の韓国の撮影ですが、『龍拳』や『酔拳』でも同様の痣がみられることから、前章でも推測したように78年の夏ごろ、『龍拳』に引き続き羅維が撮影したものではないかと私は考えています。
痣の具合から見て、一応私は『龍拳』→『鬼手十八翻』→『酔拳』という流れで考えています。時期的には8月くらいでしょうか。
次に2番目の台湾で撮影されたと思われる時期ですが、これは『笑拳』製作の直前なのではないかと考えています。
店内で林銀珠と闘い陳慧樓と出会うシーンでは、ジャッキーの顔の左頬と首筋に吹出物があるのが確認できます。
そして、次は『笑拳』の中の1シーンです。博打のあと3人組が追いかけてくるところですね。さきほどと同じ場所に吹出物が出ています。おそらく『笑拳』の撮影の中でも初期に撮られた場面ということなのかもしれません。他のシーンではそうでもないのですが、この場面ではジャッキーは異常に汗をかいており、結構暑い時期に撮られた場面とも推測できます。
『笑拳』でのジャッキーの髪は上のような短めの時と、肩にかかっても余るようなちょっと長めの時があるように感じます。3か月ほどの撮影の中での初期と後期の差ではないかと考えています。
ということで、2番目の『鬼手十八翻』台湾での撮影シーンは『笑拳』の撮影直前に撮られたものではないかと思っています。そして最後に、『笑拳』として撮影され未公開だったと思われるシーンということになるのですが、この辺の時期を特定するにも、『笑拳』の時期が特定できなければ推測しづらいので、ここで一旦離れて『笑拳』について見ていこうと思います。
クレージーモンキー笑拳(原題:笑拳怪招)
前項の『ジャッキー・チェンの醒拳』の製作時期(ジャッキー出演部分の撮影時期)特定には、まずこちらの『笑拳』の製作時期を特定しなければなりません。
まず、次の新聞は1978年9月28日のものですが、ここではジャッキーが羅維の新作を台湾の台北で撮影中とあります。
- 新聞記事:1978年09月28日『工商日報』|成龍は台湾で羅維の作品を撮影中
これが羅維プロでの作品ということなのか、羅維の監督作品なのかはちょっと判断できかねますが、ジャッキーと羅維がもめているようなことも書かれていると思われます。私はこれは『鬼手十八翻』の事なんじゃないかと思っています。
そして次の10月16日には、台湾で自ら監督や武術指導をつとめる作品、つまり『笑拳』と思われる作品を撮っています。
- 新聞記事:1978年10月16日『工商日報』|成龍が台湾で、監督・武術指導・スタント兼任で撮影中
『鬼手十八翻』ではなく『笑拳』というタイトルが出現する記事は最も古いもので78年12月19日の記事が見つかっています。この時はまだ『笑拳怪招』ではなく、ただの『笑拳』となっており、あくまで『鬼手十八翻』とは別作品ということで書かれています。
- 新聞記事:1978年12月19日『工商日報』|既に『龍拳』『天中拳』『笑拳』は撮影済み、『鬼手十八翻』を現在撮影中
この12月19日の時点で、『龍拳』と『天中拳(一招半式)』と『笑拳』は完成していて、現在『鬼手十八翻』を撮影中とあります。う~ん。
そして次の記事では、『笑拳』の配音(アフレコの事?)の為、ジャッキーが香港に戻る記事が載っています。ちなみに12月28日の新聞では『喜拳笑招(元名:笑拳)』、1月1日の新聞では『笑拳喜招』となっています。
1月1日の新聞では、『鬼手十八翻』を急いで撮影してたために香港へ戻るのが遅くなったが完成したので戻ってきたというようなことが書かれている気がします。
19日の新聞もそうですが、これだと『笑拳』の撮影終了後も、『鬼手十八翻』の撮影をしていたということになります。しかし、もし本当にここで、『鬼手十八翻』の撮影が行われていたのであれば、『龍騰虎躍(ジャッキー・チェンの醒拳)』でそのフィルムが使われないのはおかしい気がします。
もしかしたらジャッキーが適当に流しながら撮影を行っているように羅維に対して見せていたのかもしれません。で、とても使えそうなフィルムは残っていなかったとか。
いずれにしても、これで『笑拳』の撮影時期がおよそ推測できました。
『酔拳』がおそらく9月上旬から中旬までの撮影だとして、その後『鬼手十八翻』の台湾での撮影を挟んで、早ければ9月末、遅くても10月中旬には『笑拳』としての撮影がスタート。12月19日までには撮影は終了しており、年明けに配音作業が入り、その1月には台湾で公開されています。
ですから『笑拳』に関しては撮影は1978年内に終了、作品自体の完成は1979年1月ということですね。
2作品についてのまとめ
そもそも、何を持ってそれを『鬼手十八翻』とするか『笑拳』とするかという問題があります。
前項であったように実際に『笑拳』というタイトルが出てくる(発見できた)のは、12月なので最終的に『笑拳』として公開された作品も途中までは『鬼手十八翻』として製作されていた可能性があるからです。
これまでは単純に、『鬼手十八翻』が羅維監督による作品で、その後監督をジャッキーにすることで再開した作品が『笑拳』と考えていたのですが、もしかしたら羅維監督としての『鬼手十八翻』は撮影されておらず、自伝にあったようにジャッキーが監督として、監督として『鬼手十八翻』を撮影、しかしその後脚本を自ら修正して『笑拳』として撮り直しした可能性もありますよね。
あと気になる点がまだあります。次の記事は79年1月25日に開かれた『笑拳』の記者会見の記事なのですが、ここで『笑拳』は半年かかったと言うようなことが書かれています。
- 新聞記事:1979年01月25日『工商日報』|『笑拳』の記者会見
ここから半年遡ると78年の7月頃、まさに『龍拳』と『酔拳』の撮影を交互に行っていた時期になります。もしかしたら『龍拳』と同時に『鬼手十八翻』(ここでは後に『笑拳』として完成したという意味で)の撮影が行われていたのでしょうか。
ちなみに、ちょっと話は逸れますが、上の記事で『笑拳』におけるジャッキーのギャラについての記述があるので、ついでにご紹介しておきます。
これによると、主演としてのギャラが200万HKドル、脚本料が50万HKドル、武術指導が110万HKドル、監督としてのギャラが50万HKドルと、合わせて410万HKドルの報酬を得るとのこと。また、『笑拳』の出品会社である豊年影業公司(ジャッキーとウィリーが設立した会社)が関係していると思うのですが、そのほかにも利益を得る(分配?)権利があったようです。
それまでのギャラが6,000HKドルだったことを考えると大変な金額ですね。
さて、話を戻しますが、自伝での韓国での失踪劇をどこに入れるかが問題です。自分なりに3パターン考えてみました。
【A】-『鬼手』最初からジャッキー監督バージョン
78年8月、韓国で『龍拳』撮影完了。
そのまま韓国で羅維監督の『鬼手十八翻』撮影開始する予定だったが、羅維がモメてプチ失踪。
結局、ジャッキーが監督するということでとりあえず解決し、数シーン撮影。(顔に痣がある田俊とのシーンと寺院でのシーン)
しかしまだ未完の『酔拳』の撮影があるため、一時中断し香港へと駆け付け『酔拳』を完成させる。
『酔拳』の撮影終了後、台湾で『鬼手十八翻』の撮影を再開。(陳慧樓・林銀珠とのシーン)
しかし、脚本に不満があったジャッキーは急いで脚本を練り直し、新たに『笑拳』としての撮影を開始。
12月中頃には『笑拳』の撮影は完了し、翌79年1月に作品として完成し台湾で公開される。
【B】-『鬼手』途中からジャッキー監督バージョン
78年8月、韓国で『龍拳』撮影完了。
そのまま韓国で羅維監督の『鬼手十八翻』撮影開始。
数シーン撮影(顔に痣がある田俊とのシーンと寺院でのシーン)するが、羅維とモメてプチ失踪。
結局、ジャッキーが監督するということでとりあえず解決したが、ジャッキーは先に『酔拳』の撮影のため香港へと駆け付け完成させる。
『酔拳』の撮影終了後、ジャッキーは自らが監督となり台湾で『鬼手十八翻』の撮影を再開。(陳慧樓・林銀珠とのシーン)
しかし、脚本に不満があったジャッキーは急いで脚本を練り直し、新たに『笑拳』としての撮影を開始。
12月中頃には『笑拳』の撮影は完了し、翌79年1月に作品として完成し台湾で公開される。
【C】-『鬼手』は羅維、ジャッキーは監督せずバージョン
78年8月、韓国で『龍拳』撮影完了。
そのまま韓国で羅維監督の『鬼手十八翻』撮影開始。
数シーン撮影(顔に痣がある田俊とのシーンと寺院でのシーン)するが、未完の『酔拳』の撮影のためジャッキーは香港へ。
『酔拳』の撮影終了後、羅維は台湾で『鬼手十八翻』の撮影を再開。(陳慧樓・林銀珠とのシーン)
すぐに今度は韓国での撮影に向かうが、羅維とモメてプチ失踪。結局、ジャッキーが監督するということで解決。
同時に、脚本に不満があったジャッキーは急いで脚本を練り直し、台湾へ戻って新たに『笑拳』としての撮影を開始。
12月中頃には『笑拳』の撮影は完了し、翌79年1月に作品として完成し台湾で公開される。
すべて私が立てた推論でしかないのですが、まず【A】に関しては、もしこの段階で監督という権限を与えられていたならば『鬼手』の撮影よりも未完の『酔拳』を優先したような気がします。(もしかしたら『鬼手』の韓国での撮影を終了させることが条件だったのかもしれませんが)ですので、【A】は可能性が低いかなと思っています。
【B】は流れ的には一番スムーズなのですが、やはりどうも『鬼手』の監督をジャッキーがしたという点と、自伝にあるように羅維の新作のため韓国に行ったという記述はあてはまらなくなります。
【C】は一応自伝での記述に近くなりますが、『酔拳』終了後から『笑拳』としての再スタートまでの実質半月にも満たないほどの短期間に、『鬼手』の台湾撮影、韓国行き、失踪、監督承認、脚本練り直しが行われたのかどうか。
結論、どれもコレだ!という決定的な説は提唱できないのですが、今のところ【C】バージョンを当サイトでの推論として採用することにしました。
『鬼手十八翻』から『笑拳』へのシフト
初監督とはいうものの・・・クレジット上で執行導演となっているのが、趙魯江と言う人物で、私は良く知らないんですが、ジャッキーのお仲間のようです。
また、クレジットは(たぶん)されていないものの、陳誌華と曾志偉も副監督(助監督?)として参加していたことも有名な話。
これらのメンバーは元の『鬼手』には関わっていないことから、ジャッキー自身が監督することになった時点で緊急招集したんでしょうね。
キャストについては、元の『鬼手』のキャストが不明なので何とも言えませんが田俊、任世官、陳慧樓といった主要人物はそのまま継続、ただ林銀珠については出演していません。
これはどうしてなんでしょうかね。林銀珠のスケジュール的な問題なのか、それとも修正した脚本にヒロイン的存在を入れ込む隙が無かったのか。
この林銀珠という人は「韓国の上官靈鳳」とも言われていたらしいですね、どうもあまり好みの顔立ちでないため興味が薄いのですが・・・、翌年予定されていた『醒拳』への出演も希望していたらしいのですが、半年ほどスケジュールがびっしりだったため、出演を断念したそうです。(結局、この作品自体製作されていませんが)
脚本については、元のオリジナルのストーリーが不明なのでハッキリとはわかりませんが、醒龍さんが想像するストーリーが次の記事に載っていました。
「鬼手十八翻」から「笑拳」へ | 電影フリークス
いずれにしても、惠天賜と韓國材の存在はオリジナル版には存在しなかったんでしょうね。『龍騰虎躍』製作時にジャッキーの未公開シーンと偽ジャッキーだけではどうにも尺が足りないのでキャスティングされた感たっぷりです。そして敵もそれじゃあ2人にしようってことで權永文の登場。
今回あらためて観て、やはり究極につまらない作品だと(『龍騰虎躍』のことね)感じました。もうダブルが似てるとか似てないとかそういう次元の話じゃないし・・・。
結局、途中までバレバレだけど色々と偽ジャッキーでごまかしていたのに、途中から『笑拳』のフィルムをバンバン使い出すし・・・、駄作ながらも最後まで偽ジャッキーでやり切ってくれていればそれはそれで突っ込みどころがあって良かったんですがね~。
羅維の『鬼手十八翻』と『笑拳』のダブリ問題
ここでは補足事項として、『鬼手十八翻』と『笑拳』のダブリ問題について軽く触れておきます。(このあたりについては訳に自信がないため詳しく書けないんです。)
これは直接的にはジャッキーは関係ないと思うのですが、どうやら羅維が台湾で実際は1つの作品にもかかわらず、『鬼手十八翻』と『笑拳』という別の作品としてそれぞれ版権を売ってしまったことが大問題に発展したようで、ジャッキー作品が台湾で上映できない事態にまでなったようです。
この問題はかなり長びくのですが、最初にこの問題を目にしたのが、79年の1月半ばです。その後羅維は『鬼手十八翻』は15,000フィート(2時間40分ぐらいかな)撮影が終わっていると言い張っていました。
- 新聞記事:1979年01月12日『工商日報』|『笑拳』の記者会見
そうは言いつつも、結局その月には『龍拳』、『天中拳』、『笑拳』の3作品も上映されたらしく、しばらくこの問題に関する記事は見なくなります。
その後、今度は羅維とジャッキー、ゴールデンハーベストとの契約問題が連日誌面を賑わすのですが、6月13日に再びこの問題が誌面に現れます。(この辺はあまりニーズが無いと思うので記事は省略します。)
そこで、いよいよジャッキー作品は台湾で上映禁止か?みたいな話になります。で、その年の12月にもまた同じような記事が載っていました。
最終的にどのようにして解決したのかは不明です。訳も自信ないので、こんなこともあったんだ程度に留めておきます。
それにしても、羅維は訴訟や契約問題が常に付きまとっているイメージがありますね~。ただでさえ、見た目は善人に見えないし、ブルース・リーとジャッキーという2大スターともに散々こきおろされてますしね。
でも、やはりこの人がいなかったとすれば、今のジャッキーは無かったように思うんですよね・・・、そういう意味では「必要悪」ということになるのかな?
公開情報とイメージ図
最後に両作品の公開時の情報と、推測される製作時期をイメージ化してみました。
『笑拳』の公開情報
『笑拳』はさきほども触れたように、香港での公開よりも少し先に台湾で1月に公開されたようです。
下は香港公開時の新聞広告になります。(1979年2月)
こちらは1979年の香港興行収入ランキングです。外国語映画を含む総合ランキングですので、香港映画の中では自身初のトップを獲得しています。
『龍騰虎躍(ジャッキー・チェンの醒拳)』の公開情報
『龍騰虎躍』は1983年3月に香港で公開されています。下はその時の新聞広告です。
1983年の香港興行収入ランキングです。公開されたのは『五福星』や『プロジェクトA』の前で、『ヤングマスター』、『ドラゴンロード』に続く新作として宣伝されたにもかかわらず、興行的に大コケしたようです。それに比べ8億円の興行収入を上げた日本って何か恥ずかしいな~。いや、それだけ純粋な人間が多いってことだなきっと。
製作時期のイメージ図(推定)
次回は、『ヤングマスター』とゴールデンハーベスト移籍問題を中心に1979年のジャッキーの動きを見ていくつもりです。
商品情報
最近この記事を見つけました
醒拳の冒頭ジャッキーの髪は笑拳ほど長くなく右目の下にあざがあり、ようやく謎が解けました
ちなみに本当の醒拳のプロマイドに似たプロマイドを日本で見た気がします
そう言えば「醒拳」は劇場に行きました。記憶を頼りですが、その時の状況を少し。
まず、覚えているのはジャッキー登場シーンは裸になるところのみ。
それ以外は使いまわしで、新しいアクションシーンは一切なし。
これはひどいことで、同じ状況はブルース・リー「死亡の塔」にも見られますが、リーのアクションこそないものの
他のシーンは力の入った、きちんと見られるレベルに仕上がっていました。
それに比べて、存命のアクションスターの新作と銘打っておいてアクションシーンなし、その他のシーンは使いまわしか自主制作レベルの出来。しかも日本語吹き替え。本来ならテレビですら数字を取れない作品です。
観客はみな苦虫を噛み潰したような表情で、映画館には笑い声一つなく不気味な重苦しい雰囲気が漂っていました。映画が終わるとみんな放心状態で、ぐったりと椅子にもたれて茫然自失。
「死亡の塔」では観客が怒ったようですが、この時はもうあまりの落胆に怒る気力もなく、とぼとぼと帰路についていました。入れ替わりに入ってくる楽しそうな表情の若い女性やカップルたちを見て、この人たちもこんな表情になって家に帰っていくかと思うと、かわいそうになりました。これは出来云々よりも詐欺レベル。
(私は観客を観察して楽しみましたが。)
その後、チューブに出ているものにはちゃんといくつかのアクションシーンがあって唖然としました。
おそらく、あまりのひどさに未使用アクションシーンを申し訳程度に継ぎ足したのでは?と思います。
ニコニコには広東語バージョンがアップされていますが、ジャッキーと林銀珠のアクションシーンをのぞけば当時の編集に近いかもしれません。この程度の切れ端アクションでも入れておけば、あれほどの失望感を味わわせなくてすんだのでは?と思います。
林銀珠はジャッキーと相性がよさそうだし、「鬼手~」と「醒拳」のふたつがきちんと作られれていればもっと人気が出たのでは?と言う感じがします。龍拳の暗い感じよりは乞食娘など明るい役が似合うし。
スターになるかならないかは、ほんのちょっとの運命で変わるものですね。
そうだったんですか。
私は「醒拳」は劇場で観ていないので知りませんでした。
でも、劇場パンフには「笑拳」の未公開シーンや、「鬼手~」のシーンが
載ってたんですが。。。劇場とはもしや香港でしょうか?
いずれにしても、当時劇場で観た時のショックは想像できます(;д;)
林銀珠は本来の「醒拳」でもキャスティングされてましたし、
羅維もジャッキーとセットで売り出したかったんでしょうね。
いや、日本です。まだこっちに来る前でした。それで、チューブとニコニコを見たら新発見が。
おそらく日本公開時に近い(でも広東語版の)ニコニコには、ジャッキーが裸になってシャツを後ろ前に着て、袖を抜かずに正常に戻すと言う劇場版で見た場面がありました。
しかし、チューブのほうは(こっちはなぜか日本語版)そのシーンだけカットされたバージョンがありました。
つまり、
ニコニコ~服を脱ぐシーン(+若干のアクション。劇場版ではそこがなかった)
チューブ~賭け事をしてもめ、ケンカをするアクション(-服を脱ぐシーン)
と編集が変わっていることに気づきました。
それにしても、お金をとる劇場でこれほどひどい作品はあとにも先にもこれだけ。
林銀珠はもしジャッキーとコンビで売っていたら、国際スターとしてアメリカ映画なんかにも出たかも
しれないですね。まさに紙一重だったような気がします。これも運命でしょうか。
それから、ちょっとトリビア。
台湾では放映する劇場側が面倒くさがって映画を最後まで流さず、途中でプッツリと切ってしまいます。
ジャッキーの映画は終わりにNG集があってみんなまだ見ているのに。
抗議に行ったら「次の上映が押してる(まだ20分もあるのに)」と言い訳してお詫びの言葉もなし。
これでは無料以下です。
これもあまりにひどいので、以後台湾では映画を絶対見なくなりました。
ちなみに座席指定制で総入れ替えなので、何度も見る楽しみもありません。
なんと、この作品もバージョンが複数存在してたんですね~。
台湾の映画館(笑)でも、やりそう。。。
きっと今では違いますよね???
>何度も観る楽しみ
懐かしいですね。
私のジャッキー映画を観ていた頃は、ジャッキー作品⇒併映作品⇒ジャッキー作品
というサイクルで観てました☆
縁側にたたずむ田俊と、その下のジャッキーの表情。
シーン4に見える坂の下ののどかな風景。
なんとなく「水滸伝」をも思わせる山水風景と、垢抜けない無邪気なジャッキー。
これらを見ているだけで想像力を刺激され、引き込まれそうな魅力を感じます。
個人的な希望では、ジャッキーはそれほど人気が出ず東洋のカンフースターの一人で
い続けて欲しかった。本人の志向はそうではなかったのだろうけど。
写真を見るだけで、なんか楽しくなってきます。
こういう武侠小説とか古い形の古典カンフー映画、なぜか大好きなのです。
この風景、雰囲気、台詞、殺陣がなんとも魅力なのです。
駄作でもいいから、こういうのもっと撮ってほしかったです。
>駄作でもいいから、こういうのもっと撮ってほしかったです。
本当にそうですよね。
ジャッキーは1つの作品に時間をかけるので、他のスター達よりも数が少ない・・・
だからこそ生まれた名作もありますが、せめて1978年のような年をあと1年だけ
欲しかったです。そうすれば5、6本はイケたかも。
この時代のサモハンとの共演作も見たかった気がします。。。