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ジャッキー映画製作年の謎【後編-11章】アメリカ進出と初プロデュース


『【第11章】アメリカ進出と初プロデュース』の画像

後編もいよいよ終盤。1979年末、『ヤングマスター』撮影後に契約問題が未決着にもかかわらず、アメリカへ逃亡したジャッキー・チェンが、『バトルクリーク・ブロー』、『キャノンボール』でアメリカ市場に進出するまでの約1年間のジャッキーの動きを追っていきます。

自伝の記述を確認

自伝「僕はジャッキーチェン」の今回の範囲を要約すると次のようになります。

ジャッキーはなんとか『ヤングマスター』を完成させる。

羅維との問題に関してはゴールデンハーベストのレイモンド・チョウが、トライアッズとの問題はジミー・ウォングが間に入り和解の道を探ることに。

事態が収拾するまでジャッキーとウィリーは台湾へ。
その後南米へ行き、方々を飛んで歩いた。そして『ヤングマスター』が香港で1,000万HKドル以上の興行成績を収めたことを聞かされる。

やがて、ウィリーは香港へ、ジャッキーは単身アメリカへ行くこととなる。

その頃、香港では羅維、トライアッズ、ジミー・ウォングによる会合が開かれたがうまく行かず、口論となって警官が止めに入る始末だった。
だが、その後、羅維とジャッキーの契約はゴールデンハーベストが買い取り、羅維はトライアッズとの繋がりに片を付けた。また、羅維との契約中に作った作品はすべて羅維が保持することになったが、今後はジャッキーをゴールデンハーベストに手放し、これ以上モメないことを承諾した。

ジミー・ウォングに借りが出来たジャッキーは後々、『ドラゴン特攻隊』と『炎の大捜査線』に出演することで借りを返すことになる。

最終的にはすべて丸く収まり、ジャッキーはゴールデンハーベストの投資に報いるべくアメリカへと乗り込んだ。

アメリカではホテルに滞在しながら、アメリカ進出第1弾となる『バトルクリーク・ブロー』の撮影が始まるまでの2週間、英会話の個人レッスンを受けることに。
また、劇中で披露するローラー・スケートの技術を磨いている時、偶然にもアメリカにきていた大スターテレサ・テンと運命の出会いをするのだった。
しばらく2人は共に楽しい時間を過ごすが、お互いの仕事に戻る時が来る。そして、2人は再会を約束し別れるのだった。

アメリカ式の撮影方法に戸惑いつつも何とか『バトルクリーク・ブロー』を完成させたジャッキーは1日でも早く香港へ戻りたかったが、プロモーションやもう1本の映画を撮影するためまだアメリカに滞在しなければならなかった。

その後、屈辱的な扱いを受けながらもテレビや雑誌のインタビューを多くこなすジャッキーだったが、『バトルクリーク・ブロー』は興行的には成功しなかった。

続いて出演した『キャノンボール』は世界中で大ヒットしたものの、数あるスターの中の一人でしか無く、しかも日本人役での出演だった。

その後、アメリカから大きな不満と憤りを抱えて香港に戻ったジャッキーは、取り憑かれたように次回作『ドラゴン・ロード』の撮影にのめり込むようになる。

まず韓国で3か月滞在し、ゴールデンハーベストの資金を100万HKドルほど使ったがほとんど使えるものは無く、台湾へ場所を変えて撮影を続けた。
その頃のジャッキーは自分自身のコントロールをすっかり失い、軌道修正が出来なくなっていた。

そんなある日、映画に没頭するあまり忘れかけていた存在、テレサ・テンがと突然、撮影現場に現れ、ロマンスが花開く。

しかし、この時のジャッキーは傲慢で、ウィリーの言葉にも耳を傾けなくなっていた。

そしてそれがテレサ・テンとのロマンスを終わらすことにもなってしまう。

そんな状況下で、なんとか『ドラゴン・ロード』を完成させたジャッキーだったが、この作品は当初の予定を資金的にも時間的にも大きくオーバーし、浪費の多さで新記録を作るほどだった。

そして公開。この作品で自らのスターとしての輝きを取り戻したかったジャッキーだったが、日本とアジアではまあまあの成績だったものの、香港では大失敗だった。

大きく落ち込むジャッキーは部屋に引きこもる。

そんなジャッキーを救い出したのは他でもないウィリー・チェンだった。
そして自らの過ちに気付き、再出発を心に誓ったジャッキーは、サモハン・キンポーに会いに行くのだった。

このように自伝では、羅維との問題にケリがついた後にアメリカで新作の撮影を行っているように書かれていますが、実際に解決するのはまだ先の話で、結果的には『ドラゴンロード』の版権にまで影響を及ぼします。

しかし、そんなジャッキーのゴタゴタをよそに日本はじめ韓国などアジアではジャッキー・チェンが一気にブレイクし始める時期でもあります。

ジャッキー、アメリカへ~追いかけるジミーさん

『ヤングマスター』が完成したら『醒拳』を撮るよーっと約束をして時間をかせいでいたジャッキー。しかし、1979年11月半ばに『ヤングマスター』の撮影がすべて終わった途端にアメリカへと逃亡しちゃいます。

おいおい話が違うじゃないかとジミー・ウォングはジャッキーがその後アメリカから日本に渡ったと聞いて日本へ。しかし、ジャッキーは既に日本を去った後だった。

その後、自伝とは違い、まだまだ契約問題が解決しないままアメリカで『バトルクリーク・ブロー』の撮影準備に入ります。そして運命の出会い。

なんとテレサ・テンとの出会いが新聞にまで載ってたんですね~。

『ジャッキーチェンとテレサ・テン』の画像

しかし喜んでばかりもいられません。

ふたたびジミーさんがアメリカまでやって来たのです。

羅維の代理人として、ジャッキーと話をつけに来たのでした。

羅維との契約は7本。うち4本がゴールデンハーベストへのレンタルとなっていたようです。『バトルクリーク・ブロー』が終わったら『醒拳』撮れよと話をつけて、ジミーさんは6日間アメリカへ滞在した後、自身の出演映画の撮影があるので台湾へと戻っていったようです。

バトルクリーク・ブロー

『バトルクリーク・ブロー』の画像

で、いよいよアメリカ進出第1弾の『バトルクリーク・ブロー』の撮影がスタートします。

ジャッキーが撮影場所であるサンアントニオからウィリーに電話を入れたらしく、80年1月23日に(もしかしたら22日かも)撮影が始まったとのこと。

それにしてもここまで羅維がこだわった『醒拳』。観たかった気もしますな~。でも、これは作品へのこだわりでは無く、単に羅維が『醒拳』の版権を色んな国にすでに売っちゃったから大変な事態になっているだけなんですけどね。

そんなことをしている間に、香港で『ヤングマスター』が公開され、1.000万HKドル超の大ヒットを記録します。

『『バトルクリーク・ブロー』撮影中のジャッキーチェン1』の画像

で、ごぎげんなジャッキーのクリスティーヌ・デ・ベルとの2ショットなんかも新聞に載っちゃってます。(それにしてももっと良い娘はいなかったんだろうかと思ってるのは私だけでしょうか?)

『『バトルクリーク・ブロー』撮影中のジャッキーチェン2』の画像

その後、3月には台湾で『ヤングマスター』が公開されるのですが、前にもご紹介したとおりその版権を持っているのはジミーさんなのです。随分儲かっただろうな~。

そして、次の4月10日の記事では『バトルクリーク・ブロー』の撮影は当初の予定通り順調に進み、2カ月で完了。すでにジャッキーは香港に戻っているとあります。

ということは、撮影開始が1月23日ごろなので3月末頃には終えていたということですね。

『『バトルクリーク・ブロー』撮影中のジャッキーチェン3』の画像

また、この頃ジャッキーはオーストラリアにいる両親に30万HKドル以上する豪華洋館を購入し、新聞記事にもなっています。

キャノンボール

『キャノンボール』の画像

『バトルクリーク・ブロー』が終わったら今度こそ『醒拳』撮るからねという約束はどこにいったのか、再びジャッキーは『キャノンボール』の撮影のためアメリカへ。

この頃羅維は『醒拳』の賠償問題で四苦八苦していたようです。(先に色んな国に版権を売っちゃってたため)

で、この『キャノンボール』については一緒に出演したマイケル・ホイの記事からおおよその製作時期が特定できました。

これは6月10日にクランク・インということで良いのかな? で、16日から26日までに撮影を終えて、自身の作品があるのですぐ戻ってこなきゃならないと。

『『キャノンボール』撮影中のジャッキーチェン』の画像

次は、6月20日に撮られた3ショット写真。『逃獄快車』の最終日となってますが、『キャノンボール』のことですよね、きっと。

『1980年06月22日、工商日報』の画像
バート・レイノルズ、マイケル・ホイとの3ショット写真

ということは20日には終わっていたんでしょうか。

『『キャノンボール』でのジャッキーとレイモンド・チョウ』の画像

次は撮影後のマイケル・ホイとジャッキーの記事ですが、スペースの都合上、記事のレイアウトを大分加工しています。

まず、マイケル・ホイの記事に先週香港へ戻ったとあるのでやはり20日に撮影は終了しているようです。

あとは、この頃羅維は『天中拳』を香港で公開しようとしている時(7月1日公開)で、『醒拳』は撮る気ナシみたいなことも書かれてますね。

で、ジャッキーはフィリピンで新作の『神童』を撮影予定?何だろ、幻の作品かな?

下は2作品の製作日程イメージです。

『『バトルクリーク・ブロー』と『キャノンボール』の製作日程イメージ図』の画像

プロモーション活動と『バトルクリーク・ブロー』公開

孖寶闖八關

『孖寶闖八關』の画像

その後ジャッキーは『バトルクリーク・ブロー』公開のため、各地でのプロモーション活動に励みます。

またジャッキーが新たに設立した「拳威影片公司」での映画製作も進んでいきます。

1本目は楊權監督、陳勳奇(フランキー・チャン)が出演する『孖寶至尊龍』(のちに『孖寶闖八關』に改題)。ジャッキーと恋仲の噂があった米雪の妹であり、『ヤングマスター/師弟出馬』の完成披露パーティーの時にジャッキーにスカウトされたという雪梨のデビュー作でもあります。

1980年7月時点で完成していることは間違いありませんが、前年の1979年10月にすでに撮影開始の記事が掲載されていますので、実際はもっと以前に撮影完了してるのではと思います。その後、1980年9月に香港公開されています。

老鼠街

『老鼠街』の画像

2本目は、馮克安(フォン・ハックオン)監督で劉家勇(ラウ・カー・ユン)や李海生(リー・ホイサン)などが出演の『講手』(公開直前に『老鼠街』と改題)です。

この作品も7月には完成していたようですが、公開は翌1981年の5月となっています。

プロデュースといっても実際はあまりジャッキーは関わっていなような気もしますが、陳勳奇(フランキー・チャン)とジャッキーがじゃれ合っている写真なんかも雑誌の紹介記事として掲載されていました。

また、この時期はジャッキーの新作として色んな噂が浮上している時期でもあり、幻のジャッキー作品の宝庫でもあります。

詳しくは別章でご紹介したいと思いますが、フィリピンでの『神童』、また同じくフィリピンでゴールデンハーベストが製作予定の『武師血涙史』、林青霞や鄧麗君との共演作の話まで持ち上がっています。

契約問題がほぼ解決、ジャッキーは公式的な初来日

で、肝心のジャッキーは『バトルクリーク・ブロー』のプロモーションのため再びアメリカへ。

7月には王羽(ジミー・ウォング)も再度アメリカへ渡り、ジャッキーのもとを訪問し、契約問題が解決に向かっていきます。

翌8月、ゴールデンハーベストが羅維とジャッキーの契約を1本250万HKドル、合計4本を1,000万HKドルとして買い上げることで一応の解決を見ることになります。

一応というのは、この1,000万HKドルで羅維との関係がすべてスッキリしたようでも無さそうなのです。その辺は次項にて。しかしこれでようやく、1979年4月にはじめて『醒拳』の名が世に出て以来、実に1年4カ月をかけて本当の幻へと昇華したことになります。

そういえば、この少し前の7月26日にジャッキーは来日しており、8月2日までの1週間滞日しています。一般的にはこの時が初来日となっていますが、ジャッキーは前年、『ヤングマスター』の撮影完了直後の失踪中にも日本を訪れており、正確には2度目の来日となります。ただ、公式的なものとしてはこの時の『バトルクリーク・ブロー』のプロモーション来日が初来日ということになるのかもしれません。

『ジャッキー・チェン公式初来日』の画像

ついに『バトルクリーク・ブロー』公開

1980年08月29日、いよいよ『バトルクリーク・ブロー』がアメリカで公開されます。

しかし、アメリカではやはり「ジャッキー・チェン」の知名度は低く、公開時のポスターに載ることさえありませんでした。

しかし地元香港では、香港の功夫スターが世界を席巻するという、ブルース・リーが志半ばで倒れてしまった偉業を皆が期待していたのか、次の記事のように大変な期待が寄せられていたようです。

『1980年09月04日、工商日報』の画像

今までのアメリカでの功夫片の最高記録はブルース・リー『ドラゴンへの道』の2,700万ドル(『燃えよドラゴン』は2,500万ドル)だったらしく、『バトルクリーク・ブロー』の目標は5,000万ドル!?とのこと。

この頃、ジャッキーは精力的にアメリカでテレビ出演や雑誌のインタビューをこなしてプロモーション活動に励みますが、、結果的は惨敗。850万ドルしか稼ぐことができませんでした。興行成績についての詳細は、バトルクリークブロー、ハリウッド興行成績の謎をご覧ください。

これだけの期待が込められていたのであれば、850万ドルで大失敗と言われるのも仕方がないのかも。

ただ金銭的に見ると、年間1位を獲得した『ヤングマスター』の香港での興行収入が1,100万HKドル。これは当時のレートで計算すると、およそ220万ドルほどにしかなりません。

つまり『バトルクリーク・ブロー』がアメリカで稼いだ850万ドルは、HKドルに換算すると4,250万HKドルにもなります。日本でも10億円近い興収をあげますが、これでも400万ドルほどになります。

いかに、世界をマーケットにすることが商業的に大きいかがわかりますね。

来日時のジャッキーの様子も記事になっていますが、ここでもアメリカに引き続きジャッキーは『第2のブルース・リー』的な扱いを受けていたようです。

『1980年09月23日、工商日報』の画像

※記事のレイアウトはスペースの都合上変えてあります。

日本での公開は9月6日ですが、上の記事によると18日までの興行収入が5億円で、最終的には20億円を見込んでいたようです。(結果は9億4,000万円ほど)

また、台湾での公開が9月20日に、香港での公開が10月16日に決定します。

下が香港公開時の新聞広告になります。

『バトルクリーク・ブロー』の新聞広告

結局、香港ではあまりヒットせず(それでも総合4位)、580万HKドルの興行収入で終わっています。

『バトルクリーク・ブロー』の興行収入ランキング

ただ、先ほども書いたとおり、アメリカや日本での興行成績を考えると『ヤングマスター』よりも遥かに稼いだ作品だったと思われます。(その分、製作費や宣伝費もかかっているのでしょうが)

こうして羅維との問題も解決へと動き出し、念願のアメリカ進出も果たしたジャッキーでしたが、周囲と自分自身の期待に反した結果を受け、それを挽回すべく『ドラゴンロード』の製作に病的に取り掛かっていくのです。

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カテゴリ: ジャッキーチェン研究室.


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