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ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-


ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-


ジェット・リーこと李連杰が立て続けに3本目の大作映画『南北少林(阿羅漢)』に出演した頃のお話です。(1984年~1986年)

李連杰も青年となり、スターとして超多忙な日々を送るなか、『阿羅漢』への出演をきっかけに世の中の不条理に気付きはじめる時期で、世の少林寺(功夫)ブームが急速に終焉していく時期になります。

大作『南北少林(阿羅漢)』始動

この作品も各地でヒットを記録したものの、前作ほどの成果を上げられなかったことを受けた製作者の廖一原は、当初予定していた『飛紅巾』『神拳無敵』(『太極拳』)の製作を一旦棚上げし、ショウブラザーズと手を組み、大物監督・劉家良(ラウ・カーリョン)の起用を決定。リンチェイ第3作目となる『南北少林(阿羅漢)』の製作を開始させる。

いまや大注目の若手NO.1スターと大物監督の起用は注目を集め、監督とのツーショット写真で笑顔をつくるリンチェイだったが、心の中で何とも言えない不安を感じていた。

これまで通り、ヒットの余韻に浸る間もなく3作目の撮影に入ったリンチェイだったが、これまでとは何かが違った。

予算もこれまでとはケタ違いに増え、1,500名に及ぶ人民解放軍の兵士達、8つの省から3,000名の武術家、7省からスポーツ界の精鋭が5,000名と、総勢1万人近い大所帯での撮影。

だが、リンチェイが感じているのはそんなことではなかった。
気付けばもう20歳を超え、青年に成長したリンチェイは様々な不平等・矛盾に気づき始めていたのだ。

『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット 『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット

リンチェイを映画の世界に導き、前2作でお世話になった張鑫炎監督の不在。
確かに主要キャストもこれまでとほぼ変わらず、スタッフにも馴染みの顔は多くいた。

しかし、劉家良を監督に起用したことで、香港のスタッフが大量に送り込まれて来ることに・・・

この時期の幻の作品がこちら。

我慢の限界

『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット

劉家良監督と香港スタッフの現場は、今までの張鑫炎監督のように、皆の意見を聞いて一緒に作り上げるという雰囲気は微塵もなかった。当然、映画作りのやり方も違う。

違和感を感じつつも撮影を続けるリンチェイだったが、明らかに違う香港人と大陸人の扱いの差に、もう我慢の限界が来ていた。

たとえば、リンチェイは今までのシステムとおなじように、1日3元(前回よりは1元アップしているが)、の報酬だったにも関わらず、香港から来たスタッフは死体役程度の仕事でも1日50元もの報酬を貰っていたのだ。

月にすれば、大陸出身の主演俳優が90元、香港出身の死体役が1,500元ということになる。

もちろん、差別はお金のことだけではなかった。

大陸出身のリンチェイ達が質素なランチを食べている時、香港のメンバーは料理屋から特別な広東料理を注文していた。

ある時は、午前2時に起きて早朝4時からの日の出シーンの撮影に備えていた。しかし、監督はいっこうに現れず、10時過ぎになってようやく顔を出す。当然、日の出は撮れないので、撮影は後日に・・・

我慢の限界に達したリンチェイがプロデューサーに直訴したこともあった。

かつて純朴で素直だった青年の中には、世の中の不平等、矛盾、そういったものへの怒りや不満といった感情が芽生え始めていた。。。

『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット

撮影自体もこれまで以上に過酷な環境だった。

ロケ中の最高温度は49度に達し、またあるところでは最低気温がマイナス18度。
そして、この肉体的にも精神的にも過酷な状況の中、リンチェイは腰の骨を折ってしまう

一時は再起不能かとも言われたが、黄秋燕が毎日病院へと赴き、リンチェイを支えた。

そして2か月間撮影を休止した後、復活を遂げる。
しかし、そのあとも腰に加え、以前から痛めている膝の調子を気にしながら撮影を続けていく。

また、共演者の胡堅強も左目に失明寸前のケガを負いながらも2週間で復帰している。

リンチェイは好きな読書で心を落ち着かせながらも、毎日4時間の鍛錬だけは欠かさなかった。

万里の長城をはじめとした重要文化財での撮影も出演者たちを疲弊させた。

ある時、リンチェイは千年松を傷つけてしまい、遺跡保存局から1,000元の賠償を命じられてしまったことも。これはリンチェイの1年分の報酬にあたる。
結果的にこの賠償は映画会社が行ったものの、大変な撮影が続いていた。

クライマックスの河川での官軍船のシーンでは、極寒の地から40度以上ある桂林へと移動したため、その寒暖差に体調を崩すメンバーが続出。このシーンの撮影は体力・気力の限界を超えた中で1か月半にも及んだ。

『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット 『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット

こうして、1985年秋、1年半以上にも及んだ厳しい撮影は幕を閉じる。

撮影期間も予算も大幅にオーバーしたこの大作の製作費は1,000万元(約6~7億円)にも上った。

劉家良と千年松の真実

個人的に劉家良(ラウ・カーリョン)監督との確執があったのかどうかはわかりませんが、その後一度も一緒に仕事をしていないことから考えると決して良い関係だったはいえないのでしょう。

ジェット・リー自身、あまりこの作品のことについては語りたがらないようです。

で、こんな背景を知ってからあらためて劇場パンフを眺めるとちょっと興味深い記事が載っていました。

本文でも少し触れていますが、李連杰が千年松(千年前の古い松の木)を損傷させたという事件です。

詳しく書くと、

李連杰を乗せたロケ隊のバスが戒台寺に朝6時に到着。

メーキャップをし、和尚姿への着替えを済ませた李連杰はカメラの準備が出来るまで、千年松の下で劉家良監督と雑談

しばらくすると、李連杰は何を思ったか、突然両手を挙げて猛烈に松の木を打撃しはじめたのです。

すると李連杰の両手は紅く腫れ、何か所からも血がにじんだ。

劉監督はすぐに薬を用意して李連杰の手に塗りながら、

「おい、おい、撮る前から張り切りすぎだよ!」と笑っていました。

千年の松は無残にも凸凹の拳跡が残りメチャメチャな姿に。

李連杰に遺跡保存局から請求された罰金は1,000元だったが、映画会社が代わりに支払う。

李連杰は、劇中の「撃松」のシーンを本当の迫力あるものにするため、どんな表現にしたらよいか試したわけです。。。

どうでしょう、ちょっと無理があるような気が・・・

私には、劉家良監督と話していて、なんらかの理由で李連杰の我慢が限界に達し、
その怒りが千年松への打撃となったようにしか思えないのです。。。

皆さんはどう思いますか?

『南北少林(阿羅漢)』の製作時期と関連記事

『南北少林(阿羅漢)』に関する新聞記事やインタビューなどの情報をまとめると、

  • 1984年9月、撮影中。
  • 1985年5月、足かけ2年。まだ、北京、杭州、桂林などでのロケが残っていて11月末には撮影終了予定。
  • 1985年9月末、杭州で撮影中、10月には完成予定。
  • 1985年12月上、既に撮影は終了。
  • 1986年1月、来日。
  • 1986年2月、香港公開。日本は3月公開。

ほか、2か月間の撮影休止、製作費と期間ともに予算オーバー。
劇場パンフによれば、製作日数は2年10か月、撮影は1年半とのこと。

明確な撮影開始時期はわからないのですが、終了が85年10月か11月と考えると、84年5月か6月ごろと予想されます。

  • 大公報, 1984-09-11

    大公報, 1984-09-11
    (劉家良監督と李連杰、戒台寺にて)

  • 華僑日報, 1985-05-03

    華僑日報, 1985-05-03
    (撮影の状況、李連杰のケガなど)

  • 華僑日報, 1985-09-30

    華僑日報, 1985-09-30
    (予算超過、間もなく完成)

  • 華僑日報, 1985-12-08

    華僑日報, 1985-12-08
    (撮影終了)

  • 華僑日報, 1986-01-06

    華僑日報, 1986-01-06
    (訪日)

  • 華僑日報, 1986-01-25

    華僑日報, 1986-01-25
    (李連杰をアグネスが訪ねる)

『南北少林(阿羅漢)』公開

様々な感情に揺れ動きながらも、あまりの忙しさにゆっくり考える時間なんて無かった。

若くして中華武術国際発展公司の理事長に就任していたリンチェイは、撮影終了後も武術関連のイベントや会議、政府との交渉などに奔走。

さらに翌1986年2月の香港に向け、香港での映画プロモーションを終えたリンチェイは3月の公開を控えた日本へ向け、劉家良監督、于海(ユエ・ハイ)とともに1月9日、3度目の訪日。

その後も東南アジアでのキャンペーンと、息つく暇もなかった。



そしていよいよ『南北少林(阿羅漢)』公開の86年2月を迎える。

『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット

結果は、1,800万HKドル(約5.5億円)と前作に及ばず、6位という成績に終わる。

製作遅延で、前作から2年たっての公開。

その間に、香港では急速に功夫ブームが収束しつつあった。

そしてこの年トップの作品は、呉宇森(ジョン・ウー)監督、周潤發(チョウ・ユンファ)主演による『男たちの挽歌』が獲得。『南北少林』の倍近い興行成績を叩き出す。

この作品によって、香港映画界は少林寺ブームから「香港ノワール」とも呼ばれる新しい流れへと急速に変化を遂げていく。

『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット 『ジェット・リー物語【第6章】ブームの終焉 -1984~1986-』のエピソードショット

中国においても興行収入は8,000万元(約34億円)と健闘したが、3作連続での首位を逃し2位に終わる。

それまで、リンチェイの次回作として、以前から計画されていた『飛紅巾』や張鑫炎監督、于承惠主演による『戦国風雲』の武術指導の話も持ち上がっていたが、こうした映画界の変化を受け、映画会社も計画の変更を考えなければならなかった。

そして、そんな時代の流れと共に、かつての中国武術の至宝リンチェイの輝きも徐々に薄れつつあった。。。

この時期の幻の作品がこちら。

『南北少林(阿羅漢)』基本データ

『南北少林(阿羅漢)』基本データ

【監督】劉家良(ラウ・カーリョン)

【出演】
李連杰(ジェット・リー)、于海(ユエ・ハイ)、于承惠(ユー・チェンウェイ)、
黃秋燕(ホァン・チューイェン)、胡堅強(フー・チェンチアン)、
孫建魁(チャン・チェン・フー)、計春華(チー・チェンホア)

【製作】1984年5.6月~1985年10.11月
【製作費】1,000万元

【公開】1986-02-01(香港)、1986(中国)、1986-03-21(日本)

【興行成績】1,800万HK$(香港6位)、8,000万元(中国2位)

この他の動画や詳しい情報は、阿羅漢/南北少林(1985)の記事をご覧ください。

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カテゴリ: 功夫皇帝-ジェット・リー物語.


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