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ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-

ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-


ジェット・リーこと李連杰が徐克(ツイ・ハーク)とともに英雄・黄飛鴻の製作に挑戦。
自身の代表作となる『黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明)』を製作した時期です。(1990年~1991年)

ゴールデン・ハーベストとの契約延長問題、ケガによる入院、黄秋燕との離婚問題など様々な困難を抱えながらも、ヒット作を世に送り出し、功夫スターとして見事返り咲いた頃のお話です。

英雄・黄飛鴻

中国近代史上で最大の英雄・黄飛鴻

清朝末期の時代に活躍した武術家、そして医師。

その人気の高さから、これまでにもギネス記録に認定されるほど、おびただしい数の黄飛鴻映画が作られてきた。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

その中でも、關德興(クワン・タッヒン)が演じる黄飛鴻シリーズがもっとも有名で、世界最長シリーズとして80本近い作品が作られていた。

この「黄師父」と呼ばれた元祖黄飛鴻武星である關德興を、はたして超えることができるのか・・・

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット 『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

かねてより、自らの手で黄飛鴻作品を撮ることを熱望していた徐克(ツイ・ハーク)は、肝心の黄飛鴻役を誰にすべきか考えていた。

徐克はこれまで、かつてショウ・ブラザーズで一世を風靡し、徐克製作の『男たちの挽歌』シリーズで復活を果たした狄龍(ティ・ロン)を黄飛鴻役にと考えていた。

しかし、徐克は今までのような黄飛鴻像ではない新たな黄飛鴻像をつくりたかった。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

そんな時、若き武星・李連杰(リー・リンチェイ)と『龍行天下』ではじめて共に仕事をする中で、彼の中に「新しい黄飛鴻」像を見出したのだった。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

布陣

しかし、はたしてリンチェイが威厳ある黄飛鴻を演じきれるのか・・・

不安に思う声は多かった。

実際のところ、徐克でさえも・・・

そこで、武術指導には黄飛鴻直系の武術家であり、元祖黄飛鴻シリーズに出演経験もある、劉家榮(ラウ・カーウィン)を起用。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

そして、強力な共演者として、80年代中盤以降、ジャッキー・チェン、サモハン・キンポーとともに一躍トップスターに躍り出た元彪(ユン・ピョウ)の起用を思いつく。

しかし、一世を風靡したとはいえ、まだまだキャリアが浅いリンチェイの弟子役でのオファー。

ジャッキー・チェン、サモハン・キンポー作品以外で元彪が脇に回ることなど当時は考えられない事だった。

ところが、以前『蜀山奇傅 天空の剣/新蜀山劍俠(1983)』で共にヒット作を撮った仲である徐克は「君なら弟子役でも、主役の李連杰を押しのけられる」と、元彪を説得。出演の承諾を得ることに成功する。(しかし、実際は話と違ったため、その後2作目以降の出演は辞退され、それ以降2人が共に仕事をする機会は訪れることは無かった・・・)

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

ほかにも、ジャッキー映画のヒロインとして活躍後、徐克監督の『笑傲江湖(スウォーズマン/剣士列伝)』でも合作経験のある關之琳(ロザムンド・クワン)、同じく『笑傲江湖』に出演の人気俳優・張学友(ジャッキー・チュン)、ジャッキー・チェン『笑拳怪招』での悪役が印象的な任世官(ヤム・サイクン)と、万全のキャストでの製作を決意する。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

準備

当初、1990年7月からの撮影予定が結局、10月からへと遅延。

その間、リンチェイは作品中で演じる獅子舞の練習に励む。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

また、より黄飛鴻らしさを演出するために、体型をもっとスリムにしなければならなかったため、5週間いっさいの脂肪分と糖分を摂取しないようにし、毎日45分間の訓練もかかさずに行っていた。

さらには、未編集の『龍行天下』の英語アフレコのため、英語の学習も行わなければならなかった。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

新生『黄飛鴻』始動!

いよいよ1990年10月中旬、香港の西貢郊外でのロケより撮影がスタート。

撮影開始早々、雨天のシーンでリンチェイが脚を痛めたが、撮影は続行。
続けて中国福建省へ移動し、2週間撮影が続いた。

その後、元彪が日本での大作『落陽』の撮影のため日本へ。

元彪が戻り次第、撮影は再開され11月末にはロケはほぼ終了、ゴールデン・ハーベストの撮影所での撮影へ移行する。

また、当初は劉家榮が武術指導全般を任されていたが、殺陣があまりにオーソドックスで古典的だったため、これまでにない黄飛鴻映画を撮ろうと考えていた徐克は、袁信義(ユエン・シュンイー)と袁祥仁(ユエン・チュンヤン)を新たに武術指導に起用していた。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

10月から始まった撮影も翌91年2月の時点で、その3分の2を終えていた。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット 『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

春節もアメリカへは戻らず、香港で撮影を続けていたリンチェイには、『黄飛鴻』の後にもすぐ次の作品が待っていた。

監督の徐克もまた、林嶺東(リンゴ・ラム)との共同監督作で成龍主演の『雙龍會(ツイン・ドラゴン)』の撮影が3月に始まっていた。

加えて、リンチェイとゴールデン・ハーベストの契約がこの年の5月で終了することもあって、『黄飛鴻』は早く完成させなければならなかったのだが・・・

李連杰(ジェット・リー)と成龍(ジャッキー・チェン)Part2

華僑日報, 1989-08-11(GHとの契約)

ちょうどジェット・リーが『黄飛鴻』の撮影を開始した頃に、『飛鷹計画(プロジェクト・イーグル)』撮影中のジャッキー・チェンとの合作に関する記事が出ていました。

同じゴールデン・ハーベスト所属ということで、当然の流れだった訳ですが、この後ジェット・リーは契約問題でモメにモメるため、企画は流れてしまいます。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

もし、それが無ければ実現していたかと思うと、本当に本当に残念です。

やはり、この時期に二人がもし共演していたなら・・・と、どうしても考えずにはいられませんね。

ちなみに本作『黄飛鴻』には、ジャッキー・チェンのスタントチーム「成家班」も参加していたようです。

のちにジャッキー・チェンが語ったエピソードによると、ジェットがゴールデン・ハーベストで撮影していたある時、ジャッキーから会いに行って、一緒に映画を撮ろうと持ちかけたそうです。

二人はそれぞれの撮影の合間を縫って、脚本のアイデアを出し合い、意気投合したがお互いの製作会社が映画化権について折り合わず、断念したのだとか。

このエピソードから考えると、おそらく上の記事にあるように、お互いがゴールデン・ハーベストで仕事をしている時に、共演話が持ち上がったが、いざやろうとした時には、ジェットはゴールデン・ハーベストを去っていたということだと思います。(ジェットの話しでは1994年)

いやぁ、何度も言いますが残念。
全盛期の2人の共演・・・(;д;)

入院と代役

今回も、「負のジンクス」がリンチェイを襲った。

毎作ごとに怪我を負ってしまうリンチェイのジンクスからは今回も逃げることはできなかったのだ。

91年3月19日、リンチェイはラストの梯子を使った任世官との格闘シーンで、左脚を骨折
入院することになってしまう。

『黄飛鴻』は、すでに8月6日に台湾での公開が決定しており、5月までのリンチェイとの契約期間内に復帰できる見込みがないと判断した製作陣は、残りの場面を『南北少林』でもリンチェイのスタントを務めた熊欣欣(ホン・ヤンヤン)を代役として起用し、『黄飛鴻』を完成させることとなった。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

実際に予想通り、5月末の時点でもリンチェイの脚は完治せず、代役での撮影は6月いっぱいまで続いた。

そして、リンチェイを悩ませたのは、度重なる怪我だけではなかった。

マネージメント契約を結んだ羅大衛、そしてゴールデン・ハーベストとの契約問題がここにきて大きく紛糾していくのだった。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット 『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

契約延長の裏側

ゴールデン・ハーベストとの契約第1作目である『龍行天下』を撮影していた時点で、さすがのリンチェイも羅大衛に対して不信感を抱き始めていた。

本来、羅大衛はマネージメントを請け負っている以上、リンチェイにとって何を優先すべきか、何が有益かを考え行動しなければならないはず。

しかし、実際はリンチェイのマネージメントをしながら、その交渉相手となるゴールデン・ハーベスト側にも立ち、双方から利益を得ていたのだ。

また、全ての交渉に関して、間に羅大衛が入っていたため、リンチェイはゴールデン・ハーベストのトップである鄒文懐(レイモンド・チョウ)とでさえ、ほとんど接触させてもらえなかった。

羅大衛が間に入ることで、ゴールデン・ハーベストへの印象も特別悪いものとなってしまったリンチェイは、脚の怪我で入院中、まもなく5月で切れる契約を延長せず、打ち切ることを決意する。

2年前に交わした契約では、2年で4作品600万香港ドル(約1億円)となっていたものの、万が一期間内に4本を撮り終えていなくても、600万香港ドルの出演料は保障されていたはずだった。

そのため、リンチェイは契約を打ち切り、残りの2本分の300万香港ドル(約5千万円)をゴールデン・ハーベストへ要求するよう羅大衛へ伝えた。

しかし、羅大衛によればそれは無理だということだった。

リンチェイは、弁護士にも相談したが、残り2本を撮らなければ逆にゴールデン・ハーベストから倍の600万香港ドルを請求されることになると言われる。
さらに、相手側には最高の弁護士がついているので、争うことは避けた方が良いと進言される。

リンチェイの心は深く沈んだ。
あまりの辛さに、映画を撮りたいという気持ちすら消えていた。

「もうお金もいらないから、ただアメリカへ帰りたい。」

全てを投げ捨てて、逃げ出したかった。

しかし、それは叶わなかった。
ビザはゴールデン・ハーベストが担保として持っており、羅大衛によれば、もし残りの2本を撮らなければ、ビザは取り消され、申請中だったグリーンカードも中止になってしまうとのことだった。

「悪いのはゴールデン・ハーベストだ。しかし状況をよく考えて行動するべきだ。」

そう羅大衛に言われたリンチェイは、悩んだ。
『南北少林』の時にも感じたように、これは自分が大陸人だからなのか・・・そう考えたこともあった。

リンチェイは徐小明や程小東にも相談したが、やはり巨大企業ゴールデン・ハーベストと対決することは無謀だと言われ、和解を勧められる。

リンチェイは、半年間の契約延長を承諾する代わりに、毎日25,000元(約36,000香港ドル)の支給を条件提示。

しかし、羅大衛を通して得た返答は

「半年間、毎月50,000元(約72,000香港ドル)。これが限界だ。」

実際には、そのうち4割にもあたる20,000元が羅大衛のもとに入るので、実質30,000元ということになる。

実はこの頃、3年近くに及ぶ利智(ニナ・リー)との不倫生活にも悩んでいたリンチェイは、妻である黄秋燕との別れを考えていた。

2人の娘のためにも、少しでも財産を与えようと考えていたリンチェイだったのだが、その条件を吞むほかなかった。

そのかわり、ゴールデン・ハーベスト側へ、リンチェイのグリーンカード申請を認めさせ、91年6月30日から12月30日までの半年間の契約延長が正式に決定する。

黄秋燕との離婚

その後リンチェイは、アメリカへ戻り、黄秋燕に対して、利智を愛してしまったこと、そして別れてほしいと懇願する。

黄秋燕は泣き崩れ、それを拒んだが、最終的に同意。

こうして、91年の夏、二人は人知れず離婚。

黄秋燕の両親はメディアの報道でその事実を知ることになる。

リンチェイは償いにと、2人の娘が不自由しないよう、映画の出演料・家・車など自分の全財産を彼女に与えたが、彼女の悲しみは癒されることは無く、その後何年も続いた。

黄秋燕と李連杰

出会って20年後に結婚した二人。
しかし、その結婚生活はわずか4年で終わることになります。

離婚後、黄秋燕はアメリカへ戻りますが、住む家も仕事も無かったそうです。

ジェットからの慰謝料はすべて子供の為に取っておいたということなんでしょうか。

結局、知人から地下の一室を借りて暮らし、失業状態の黄秋燕には2人の娘(思、苔蜜)を育てることは出来ず(養育権はジェットに)、ジェットの母が育てることに。

黄秋燕は離婚後も、決してジェットのことを悪くは言わなかったとか。

離婚後、長い間悲しみに暮れる日々が続いたようですが、彼女は再出発を誓い、学校へ通って美容師へと転身。

友人たちが幾度となく男性を紹介したも、離婚後10年以上に渡って、ジェット以外の男性と交際することは無かったそうです。

その後、運命の人が現れ、2005年11月21日に再婚し、今は幸せに暮らしているといいます。
ジェットはこの時、お祝いに5万ドルの車を贈ったらしいですね。

そして現在でも、良き友人としての付き合いが続いているとか。。。

なんだか切ない話ではありますが、その後のジェットと利智の熱々ぶりを見ると、やはりこれで良かったのでしょうね、きっと。

『黄飛鴻』、ついに公開!

91年7月。その頃、香港では徐克が『黄飛鴻』の編集作業に追われていた。

翌8月6日には台湾での公開を控え、さらに8月から3か月の予定で『笑傲江湖(スウォーズマン/剣士列伝)』の続編となる、『東方不敗(スウォーズマン/女神伝説の章)』の撮影を行う予定になっていた。
また、成龍の『雙龍會(ツイン・ドラゴン)』の製作も進行中と、多忙を極めていた。

8月に入ると、『黄飛鴻』の宣伝活動のため、リンチェイはアメリカから香港へと戻った。

過去、リンチェイの『少林寺』、『少林小子』、『南北少林』が公開されなかった台湾を、会社側は重要な市場と位置付け、『黄飛鴻』の初公開を待った。

『ジェット・リー物語【第10章】英雄 黄飛鴻 -1990~1991-』のエピソードショット

8月6日、『黄飛鴻』は『武状元黄飛鴻』として台湾で公開。
結果的に年間33位という成績だったが、まずまずの手ごたえを感じていた。

そして、ついに91年8月15日、『黄飛鴻』香港公開。

当初は不安視されていたリンチェイによる黄飛鴻像だったが、予想を良い意味で裏切り、見事に観客にハマり大ヒットを記録する。

最終的に香港だけで3,000万香港ドルを叩き出し、年間でも8位の興行成績を上げ、功夫皇帝リー・リンチェイの復活を強烈にアピール。

10年前に『少林寺』で少林寺ブームを巻き起こした李連杰が、今度は『黄飛鴻』をキッカケに、一大「古装片ブーム」を巻き起こすことになったのだ。

また、翌年の【第11回香港電影金像奨】でこの作品は、最優秀監督賞・最優秀編集賞・最優秀アクション監督賞・最優秀音楽賞を獲得することになる。

『黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明)』基本データ

『黄飛鴻(ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明)』基本データ

【製作会社】 嘉禾電影有限公司(ゴールデンハーベスト)/嘉峰電影/電影工作室
【製   作】 徐克(ツイ・ハーク)
【監   督】 徐克(ツイ・ハーク)
【武術指導】 劉家榮(ラウ・カーウィン)※途中降板、
袁信義(ユエン・シュンイー)、袁祥仁(ユエン・チュンヤン)

【出   演】 李連杰(ジェット・リー)、元彪(ユン・ピョウ)、
張學友(ジャッキー・チュン)、關之琳(ロザムンド・クワン)、任世官(ヤム・サイクン)

【撮影期間】 1990年10月~91年6月(李連杰は怪我のため3月まで)
【製 作 費】 4,000万HK$(約7億7千万円)※徐克談では2,000万HK$

【公   開】 1991-08-15(香港)、1991-08-06(台湾)、1994-10-11(日本)
【興行成績】 香港:2,970万HK$(8位)
【受   賞】 【第11回香港電影金像奨】
最優秀監督賞・最優秀編集賞・最優秀アクション監督賞・最優秀音楽賞

この他の動画や詳しい情報は、
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・チャイナ 天地黎明/黄飛鴻(1991)
の記事をご覧ください。

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