ジェット・リーこと李連杰の誕生から小学校に入学する7歳までのお話です。(1963年~1970年)
幼い時に父親を亡くし、貧しい家庭環境ながらも母親の深い愛情で育てられ、優しい少年に育っていったジェット・リーが、徐々にリーダー的な資質や武術の才能を開花させていった時期になります。
小虎誕生
1960年代の中国。
政治的な混乱と大規模な飢饉が続き、国民は一様に苦しい生活を強いられていた。
そして、とある産婦人科。そこには一組の夫婦の姿が。
夫婦は、すでに二男二女に恵まれていた。
しかし一般的な労働者の家庭ではあったが、生活は決して楽ではなかった。
悩みぬいた夫婦は、新たにお腹に宿った命は中絶しようと決意していたのだった。
そして中絶しようとしたまさにその時、病院に祖母が訪れ、「この子は天才になるかも知れない。だから産んだ方がいい。」と両親を説得。
こうして1963年4月26日、中国遼寧省瀋陽市にて5人兄弟(姉2人、兄2人)の末っ子として一人の男の子がこの世に生を受ける。
生まれた子供の体重は優に4kgを越え、天に響くような大声で泣く非凡な赤ん坊だった。
李正東。
のちに李連杰(リー・リンチェイ)、そしてジェット・リーとして世界に知られる功夫スター誕生の瞬間である。
父の死、貧しい生活
しかし少年が2歳の時、突然の悲劇が一家を襲う。
ある日のこと、技術者だった父親は頭痛を抱えながらも上海へ出張へ。
そして翌日、脳梗塞により父親が急死してしまう。
食べることもままならず、決して裕福とは言えなかった家庭はさらに貧窮に陥る。
長女:李蓮珠、
次女:李連萍、
長男:李連勝、
二男:李連利、
三男:李連杰。
母・張鳳蘭はバスの切符売りをしながら、5人の子供と2人の両親を女手一つで懸命に養った。
そして、そんな苦労を子供たちには悟られまいと気丈に振舞っていた。
日々赤ん坊を背負い仕事に出かける母。
その背中の赤ん坊には、父親が亡くなったことや母親の苦労など理解はできなかったはずだが、何かを感じ取っていたのか、とても大人しく泣きわめくこともなかったという。
そして、そんな赤ん坊を家族は小連(シャオレン)と呼び、母親も深く愛し可愛がった。
中国遼寧省瀋陽市
ジェット・リーの生誕の地は、中国遼寧省瀋陽市と言われており、瀋陽市は中国東北地方最大の都市で、観光地でもあるようです。
地図を見ると、中国の広大さで北京に近いように見えるが、実のところ700kmも離れています。
ちょっとした疑問ですが、『少林寺』公開の後、ドキュメンタリーや雑誌などでよくジェットの自宅(実家)が紹介されていましたが、その場所は北京市の北西部。
その時には母親は既にバス会社を退職していたが、長男の李連勝はそのバス会社で働いているとのこと。まさか800km通勤は無理だと思うのですが、どうなっているのでしょうか。
長男は瀋陽市に残り、家族が北京に引っ越したのか。生まれた地が瀋陽市なだけで、実家はもともと北京だったのか。あまり重要ではないが、ちょっとした疑問です。
少年の涙とリーダーの資質
それから数年。4歳になったリンチェイ少年の体は、かつて「小虎」と呼ばれた面影は無く、体はやせ細り、哀れに見えるほどに変わっていた。
家庭の貧しさは相変わらずで、小麦粉や麦で食事を済ますことも多かったのだ。
少年はそんな環境にあっても、不満な顔ひとつ見せることは無かった。
しかし、いくら大人びているといえ、そこはまだ4歳。
ある日のこと、父の写真の前で泣いているところを母親に見られてしまう。
「隣の子供が持っている三輪車を自分も欲しい、お父様が生きていたならば・・・」と泣く我が子の姿を見た母親はひどく心を痛め、苦しい中で節約をし、数か月の後三輪車を買い与えた。
自分の三輪車を手に入れはしゃぐ姿を見た母親の心から、すべての苦しみや悲しみが消え去っていった。
そのような子供らしい一面も持っていたリンチェイ少年だったが、やはり聡明な子だった。
わずか4歳にして、遊ぶときには7・8歳の年上の子供たちを率いるリーダー的な存在となっていた。
功夫皇帝の片鱗
思いやりのある素直な少年に育ったリンチェイは、7歳で北京廠橋小学校に入学する。
当時から身体能力の高かった少年は班長に選ばれ、さらに国民柔軟体操の体操指導員に選ばれる。
これは毎日行われる全校での国民柔軟体操の時に、1年生から6年生に指導するという責任ある仕事だった。
音楽だけは苦手な少年だったが、家に戻るとまず宿題に取り掛かるような、いわゆる優等生だったため、そんな音楽の成績すら満点をもらえるほど先生方に大変気に入られていたという。
彼が学校に毎日着ていく服はすべて兄や姉の古いお下がりだったため、ある時は姉から貰った花柄のズボンで学校へ行ったこともあった。また、父親がいないことでも、同級生からよくからかわれていたが、母には文句一つ言わなかった。
それでも内心は悔しかった。。。
しかし、母からは喧嘩はしないように言われていたため我慢をしていた。
その悔しさが、幼い少年の原動力ともなり、誰よりも勤勉で努力家、そして先生からの評判も高い成績優秀な少年をつくっていくことになる。
しかしある時、ガキ大将相手に父親がいないことをからかわれ大怪我を負わしてしまう。
そして、その時の少年の機敏な動きをみて、体育教師だった胡平は彼に武術の才能があることを発見したのだった。
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