ジェット・リーこと李連杰がその武術の才能を開花させ、北京武術団に選抜される頃のお話です。(1971年~1974年)
北京業余体育学校へ通うようになり武術の才能が本格的に開花。
はじめての武術競技で優秀賞を獲得し、「神童」として国際ツアーに出始めた時期になります。
武術の才
1971年夏、学校は1か月の夏休みの間に生徒たちを北京業余体育学校へ送り出す。
これは複数の学校から運動能力の高い生徒を集め、水泳や球技、体操や武術といったクラスに分け、さらに優秀な者を選抜し訓練するいわばエリート養成学校のようなものだった。
そんなこととは知らず、サマースクール気分で登校したリンチェイは体育教師だった胡平の手引きで武術クラスへ。
しかし、この時はまだ武術がなんであるかさえわからなかった。
各クラスは1年生から6年生の1,000人余りで構成され、休み中毎日2時間半トレーニングを受けた。
また、そこには後に映画で共演し、結婚することになる黄秋燕の姿もあった。
そしてここでも、彼は持ち前の勤勉さでまじめに取り組み、武術の腕を上達させていく。
エリート
そして夏も終わり、再び普通の学校生活に戻れる・・・
と、少年は思っていた。
しかし現実は、1,000人のうち20人ほどの優秀な生徒は、
その後も毎日放課後に訓練を受けることに。
北京廠橋小学校からは5・6名が選出され、
その中に1年生で唯一選抜されたリンチェイの名前もあった。
他の生徒が学校が終わって遊んでいる時、
自分は厳しい訓練・・・
そんなことに多少の不満を感じつつ、
彼はさらに3か月の訓練を受ける。
その後、さらに選抜者がふるいにかけられ、脱落していく。
そんな中で彼は残り、訓練も一段と厳しさを増していった。
また、訓練は屋外で行われていたため、冬になると厳寒の中での訓練が待っていた。
再生時間 1:32
神童あらわる
1972年、厳しい訓練が続く中、リンチェイは9歳になっていた。
そして初めての武術競技会に出場することに。
中国全土から最高の競技者達が集まる競技会だ。
会場は山東省済南。
少年は生まれてはじめて家を離れることに不安を覚えていた。
しかし、いざ本番が始まると持てる力をフルに発揮し、最高の演技を披露。
結果、
最優秀演技者に与えられる優秀賞を獲得。
中国武術界に「神童」現る!
少年リー・リンチェイは武術界で一躍注目を浴びることになった。
再生時間 1:19
厳しい訓練
その後、リンチェイは体育学校の寮へ入寮し、1日中武術の訓練に励むことに。
毎朝6時に大音量のベルで起床。
点呼ののち1時間の訓練、朝食のあと8:30には訓練が再開され12:00まで。
昼食ののち昼寝をするなど多少の休憩はあったものの、また訓練は再開され、19:30の夕食後から22:00、時には22:30まで訓練は続き、日々8時間に及ぶ訓練の日々だった。
そして夜は10人以上で一つの部屋で寝ていた。
ある時は、足を骨折しながらも2日間練習に励んだこともあった。
少年にとって、学校での日々の訓練は非常に厳しく、最初の頃は幾度となく大泣きしていた。
しかし、母を喜ばせたい一心で訓練に励む。
また、現実的な側面として、この学校に通う限り、食事と衣類の提供、そして毎月60元の補助金を受け取ることができ、これは一家の生活を安定させるには十分な額だったのだ。
母はそんなリンチェイを誇りに思い、そしてリンチェイは厳しいトレーニングに耐えながらたくましく成長を続けていく。
この頃のリンチェイは、武術クラス一の暴れん坊で、やんちゃだったため、よく呉彬コーチに叱られていたという。。。
US親善ツアー
1974年、リンチェイ11歳。
数か月におよぶ選考の末、新たに結成された北京武術チーム28名の一人に選出された。
最初の任務はアメリカ4都市を回る親善ツアー。
半年間の準備期間に、武術の訓練は当然のこと、西洋のマナー全般、礼儀作法や振る舞い方に至るまで徹底的に教え込まれた一行は、北京を飛び立った。
まず一行はメキシコへ飛び、半月間、武術のデモンストレーションを行う。
その後、ホワイのホノルルへ。
28人の選抜メンバー、コーチなど44名。
そして政府のボディガードが26名。
さらにアメリカの警察隊が護衛する厳重な警備のもと、続けてサンフランシスコ、ニューヨークへ。
ツアー中にお小遣いとして毎日5ドルほどのお小遣いを貰っていた少年は、そのお金で母親にスイス製時計をおみやげとして買っていった。
そしてツアー最後の滞在地ワシントンでは、チームから選ばれた数人がホワイトハウスで演武を披露することに。
そこで当時のアメリカ大統領ニクソンは、リンチェイに話しかける。
『君のカンフーはとても印象的だ。大きくなったら、私のSPにならないか?』
しかしリンチェイは答えた。
『私は大きくなったら、個人ではなく十億の中国人を守りたいです!』と。
そして少年は、母親の待つ中国へと帰って行った。
再生時間 0:40
北京武術団
北京の武術チームは、1974年11月に正式に発足したという情報もあるようです。
その時のメンバーは総勢28名。
コーチが3名、選手が男12名、女13名の計25名だったとか。
コーチが吳彬、程慧琨、李俊峰の3名。
男子メンバーは、李連杰(ジェット・リー)、李志洲、王建軍、李金恒、喻少文、王群、嚴平、董洪林、孫建明、唐來偉、崔亞輝、楊永利の12名。
女子メンバーは、李霞、郝致華、戈春艷、張宏梅、呂燕、回旭娜、黃秋燕(ホァン・チューイェン)、周京萍、張桂鳳、米金镕、王秀萍、黃小鳳、張德華の13名。
吳彬コーチは有名ですね。今や老師と呼ばれてます。
あと、王群って、もしかして『ジェット・リーの軌跡(東方巨龍)』に出てた人では・・・自称弟子って・・・って思ってたけどあながち嘘じゃなかったんだ。
あと、日本にコーチとして長期に渡り滞在された(している?)孫建明。(詳しくはこちらに)
リンク先のコンテンツの中に吳彬老師のコメントもあって、その中に「1974年9月に中国少年武術代表団の一員として初めて訪日」と書かれてました。もしかしたらジェットの初来日はこの時だったのかもしれませんね。
右上の写真はその時のものではありませんが、一番右に吳彬コーチ、下段右から2番目に李連杰、最上段左から3番目に黃秋燕(元奥様)の姿が確認できます。
下の動画は、一部のメンバーの演武映像です。(当時のものではなく、10年以上後のものです)
再生時間 2:06
再生時間 2:11
再生時間 1:33
再生時間 1:30
再生時間 1:10
再生時間 9:58
再生時間 1:06
再生時間 1:10
李小龍と李連杰
アメリカをはじめ、各地をまわっていた武術団は、ある時香港に公演で訪れる。
当時の香港は、前年の李小龍(ブルース・リー)の死去により功夫映画が下火になっており、映画関係者は躍起になって第2の李小龍を探していた。
リンチェイはまだ11歳の少年であったが、はやくもそんな映画関係者の目に留まっていたという。
そして、少年は劇場で一本の映画を観る。
『精武門(ドラゴン怒りの鉄拳)』
既にこの世にはいない李小龍の雄姿を少年はスクリーンで初めて目にし、大きな衝撃を受けたのだった。
よもや10年後に、その役を自分が演じるとは夢にも思わずに・・・
この時、リンチェイのほかにも30人ほどが映画関係者によって招待されていたとジェット・リー自身がインタビューで語っています。そして、その関係者から「将来、アクションスターになりたくないかい?」と言われたとも。
別のインタビューでは、ジェットは11歳の時にスカウトされ、5年待ってもらい『少林寺』へ出演したとも語っています。
もしかしたら、この時ジェットを李小龍の映画に招待したのは『少林寺』の関係者だったのかもしれませんね。(傳奇?廖一原?)
ちなみに初来日時には、『少林寺』撮影後に吳彬コーチと香港でブルース・リーの映画をたくさん観て(中国では見たことがなかった)、その迫力に驚き、一生懸命努力していつかブルース・リーを超えてみせると心に誓ったとも語られています。
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