日本が誇る和製ドラゴン倉田保昭氏の、生誕から現在に至る60余年の軌跡。
ようやく台湾を脱出できた1973年秋。これまでの鬱憤を晴らすかのように、好敵手・梁小龍(ブルース・リャン)と名作を生み出し、ついに日本への凱旋帰国が実現。
テレビ、映画、そして歌にと、日本でもスターの座をつかみ取った1974年12月までのドラゴンの歩みです。
好敵手・梁小龍(ブルース・リャン)
1973年9月 27歳:帰ってきたドラゴン
9月に入って半月ほど母国日本へ戻った後、再び香港へと戻ってきた倉田氏は、香港復帰第1作目となる『帰って来たドラゴン(神龍小虎闖江湖)』の撮影の為、マカオから小舟で1時間ほどの小島へと向かった。
『帰って来たドラゴン(神龍小虎闖江湖)』は、気心知れた呉思遠(ウー・シーユェン)監督との3本目の作品。
そして今回の相手役は、これまで殺陣師として仕事を共にしたことのある梁小龍(ブルース・リャン)。
その後も倉田氏の最大の好敵手として、度々タッグを組むことになる盟友だった。
約1ヶ月のロケのうち、およそ半分はそのリャンとの立ち回りの撮影に費やされた。
徹底した完璧主義の呉思遠(ウー・シーユェン)監督のもと、大変ハードな撮影が続いたが、これまでの台湾でのことを思うと却って心地良く感じられた。
また、呉思遠(ウー・シーユェン)の作品は、自分が出演した2作品だけではなく、いずれもヒットしているという信頼感も大きかった。
1973年10月 27歳:韓国行きとマンション購入
今度は韓国での撮影。
2週間のロケのうち、自分の出演シーンは4,5日だったため。気楽な気持ちで臨んだが、こちらもやはり反日感情は根強く、さらにこの頃ソウル市内では戒厳令がしかれており、とても気楽な滞在とはならなかった。
台湾を出て1か月半。
韓国から香港へ戻った倉田氏は、空港から車で15分ほどの高級住宅地に5LDKのマンションを購入し、束の間の休息を味わった。
この韓国ロケの作品とは一体、どの作品なんでしょうか。自伝での時系列がおかしいのか、謎のままです。。。
1973年11月 27歳:ショージ・カラダ
久しぶりにゆっくりとした時間を過ごした後、次回作『金三角龍虎門』のロケ地・フィリピンへと向かった。
以前撮影した南海公司での『小拳王』がフィリピンでは、行列が出来るほどの大ヒットを記録していたため、ここフィリピンでは「ショージ・カラダ」という名前で、スーパースターだった。
ただ、熱帯ゆえのゆっくりとした風土によって、当初1週間の予定だったロケは延びに延びて結局1ヶ月ほど滞在することになってしまった。
1973年12月 27歳:急病
12月。突然、激しい頭痛に見舞われる。
数日後には、そこに激しい吐き気も加わった。
原因も定かでないまま、医者に出された薬を飲んでみたが一向に効かず、食欲もなく横たわる日々が2週間も続いた。
3週間ほど苦しんだ後、友人が見つけてくれた医者によって、むち打ち損傷が原因であると判明。おそらくフィリピンロケ中の転倒が原因と思われた。
それから1週間。発症から1ヶ月ほどでようやく痛みがおさまり始めた頃、イタリアへの長期ロケの話しが舞い込んでくる。
信頼のおけるヒットメーカー、呉思遠(ウー・シーユェン)からのお誘いだった。
そして共演は、梁小龍(ブルース・リャン)。
病み上がりとは言え、ここ1ヶ月、体を動かせていないこともあり、ウズウズしていたところに、そのメンバーからのお誘い。
断る理由は何もなかった。。。
ドラゴン世界を征く
1974年1月 27歳:ローマ・ロケと帰国要請
イタリア・ローマへと乗り込んだ一行は、市内各地で無許可のゲリラ撮影を繰り広げる。
その作品、『無敵のゴッドファーザー ドラゴン世界を征く(香港小教父)』は、香港映画ではブルース・リーの『ドラゴンへの道』以来となるローマ・ロケということで話題になったが、長期ロケを見越してあらゆる部分での経費節減が徹底された。
ホテルへの宿泊は高いので、皆アパートで自炊をしながら雑魚寝という貧乏生活ではあったが、良い作品を撮りたいというスタッフ・役者たちにとっては大きな問題では無かった。
ローマ・ロケも1ヶ月ほど過ぎた1月末、日本から一通のエアメールが届く。
それは日本の松竹富士映画からのもので、昨年秋の『帰って来たドラゴン(神龍小虎闖江湖)』の日本公開が決定し、そのプロモーションに協力するため帰国して欲しいとのことだった。
ついに母国日本へと、「凱旋帰国」する時がやってきたのだ!
1973年-香港-映画
帰って来たドラゴン(神龍小虎闖江湖)
監督:呉思遠(ウー・シーユェン)
共演:梁小龍(ブルース・リャン)、黃韻詩(ウォン・ワンシー)1973年-フィリピン-映画
金三角龍虎門
監督:羅棋(ロー・ケイ)
共演:韓英傑(ハン・インチェ)、張力1974年-香港-映画
無敵のゴッドファーザー ドラゴン世界を征く(香港小教父)
監督:呉思遠(ウー・シーユェン)
共演:梁小龍(ブルース・リャン)、孟海(マン・ホイ)参考資料
華僑日報, 1973-11-29
思遠、翌月には再びヨーロッパへ行き2本の新作撮影、恒生と思遠
帰ってきたドラゴン
1974年2~3月 27歳:凱旋帰国
2月半ば、ローマでのロケを終え香港へ。
そして、約2年ぶりに日本へと凱旋帰国を果たす。
またこの頃、香港・台湾での活躍に目を付けた日本の制作プロダクション・宣弘社から倉田氏を主演とした日本でのテレビシリーズへの出演を打診される。
帝国ホテルでの記者会見にはじまり、テレビ出演、雑誌インタビューと数週間に渡るキャンペーンをこなしつつ、公開日を待った。
1974年3月21日。いよいよ母国日本で、『帰って来たドラゴン(神龍小虎闖江湖)』が公開。
昨年末にブルース・リーの『燃えよドラゴン』で、ブームに火がついていた日本で大ヒットを記録。
梁小龍(ブルース・リャン)との《ハイスパートクンフー》ともよばれるエンドレスアクションや、壁と壁の間を足でよじ登る《壁虎功》などが話題となる。
そして、半ば強引に、日本でのテレビシリーズ『闘え!ドラゴン』への主演も決定。
香港ではブルース・リーの死によって急速にアクション映画の人気が低迷していたこともあり、しばらくは日本を拠点として活動することとなる。
こうして母国日本でも、本物のアクションを披露。晴れて人気スターの仲間入りを果たした。
ここでは自伝本『和製ドラゴン放浪記』での時系列をベースとして記述していますが、他の書籍やインタビューでは4か月ほどローマに滞在したとも語っています。どちらが正確なのかはわかっていません。。。
1974年7~12月 28歳:闘え!ドラゴン
1974年7月2日、いよいよ主演のテレビシリーズ『闘え! ドラゴン』の放送がスタート。
12月24日にかけ、毎週火曜日19時30分から全26回の2クールが放送された。
この作品では、香港から友人である梁小龍(ブルース・リャン)や楊斯(ヤン・スエ)らも呼び寄せ、本格アクションを披露した。
また、東映から映画『直撃!地獄拳』への出演依頼が来るも、大先輩ながら強くライバル視していた千葉真一が主演ということもあり、出演を断っていた。
しかし、結局は会社に説得され出演することに。ただ、2人の共演場面はなく、唯一スチール写真の撮影時のみの対面となった。
続いて、日本の女性アクションスター・志穂美悦子主演作『女必殺拳 危機一発』へ出演。
こうして連続シリーズの『闘え!ドラゴン』の撮影の合間を縫って、2本の邦画への出演をこなす。
さらに11月からは、東映制作でTBSで放送中のTVシリーズ『バーディー大作戦』に途中参加。1975年5月までレギュラー出演し、テレビドラマ2本に掛け持ち出演することとなった。
そして、12月24日。連続シリーズの『闘え!ドラゴン』は当初の予定通り2クールで終了。再編集された短縮版『神拳飛龍』なども海外用に製作された。
私生活では、この頃結婚。その終了日前日には香港で挙式を挙げている。
ここでは自伝本『和製ドラゴン放浪記』での時系列をベースとして記述していますが、書籍『最強最後のヒーローステーション ドラゴンスピリッツ』に掲載されている倉田氏のインタビューによると、『闘え!ドラゴン』の撮影の合間を縫ってフィリピンで映画を撮り、そこに日本のスタッフが追いかけてきて『闘え!ドラゴン』のフィリピンロケを行ったと書かれており、付属DVDのインタビューでは、その作品は『金三角龍虎門』だと語っており、自伝本の記述とは矛盾が生じています。果たしてどちらが真実なのでしょうか?
1974年-日本-TVシリーズ
闘え! ドラゴン
監督:外山徹、他
共演:府川房代、赤塚真人1974年-香港(日本)-映画
神拳飛龍
監督:彭謙
共演:梁小龍(ブルース・リャン)、李家鼎(リー・カディン)1974年-日本-映画
直撃!地獄拳
監督:石井輝男
共演:佐藤允、西城正三、中島ゆたか1974年-日本-映画
女必殺拳 危機一発
監督:山口和彦
共演:志穂美悦子、光川環世1974-1975年-日本-TVシリーズ
バーディー大作戦
監督:深作欣二、他
共演:丹波哲郎、谷隼人、沖雅也参考資料
華僑日報, 1974-12-20
結婚22日に。結婚後はヨーロッパやアメリカへ旅行予定。参考資料
香港工商日報, 1974-12-22
テレビの報酬、毎週20万円。奥さんとは、二年前。参考資料
華僑日報, 1974-12-23
結婚、写真
再生時間 1:06
再生時間 2:40
再生時間 1:25
再生時間 2:12
今回は、自伝『和製ドラゴン放浪記』に書かれていた女性関係などのプライベート部分は省きましたが、72年秋に後の奥様と思われる女性と婚約、台湾から戻り次第結婚するような記事があり、74年12月にはその女性と香港で挙式をしている記事が掲載されていました。他の新聞記事や『激突!ドラゴン武術』でも、倉田氏が最初に香港へ行く前からお付き合いされていたようですが、では、自伝の中の台湾女性とは一体???
唄う!ドラゴン
またこの年、『闘え!ドラゴン』のEDソング「ロンリー・ドラゴン」で歌手にも初(劇中は除く)挑戦。
それがきっかけとなり、『バーディー大作戦』での主題歌「こぼれ花」なども担当。
1977年にかけて、シングル「こぼれ花/終列車」、「ねがい花/しあわせの旅路」、「ヘアピンブルース/夢の旅」や、12曲入りのLP「こぼれ花」、10曲入りのLP「CITY」などを発表した。
EPレコード
「闘え!ドラゴン / ロンリー・ドラゴン」
1974年発売。B面に倉田氏が唄うEDソング「ロンリー・・ドラゴン」収録。A面は子門真人の唄うOP主題歌「闘え!ドラゴン」EPレコード
「こぼれ花 / 終列車」
1975年2月発売。2ndシングル。作詞~千家和也、作曲~遠藤実LPレコード
「こぼれ花」
全12曲のアルバム。A面:1.こぼれ花、2.ついて来るかい、3.人生の並木道、4.くちなしの花、5.別れても、6.男がつぶやく子守唄、B面:1.ねがい花、2.終列車、3.しあわせの旅路、4.旅の宿、5.遠くへ行きたい、6.北帰行EPレコード
「ねがい花/しあわせの旅路」
1975年発売。シングル。EPレコード
「ヘアピンブルース/夢の旅」
1977年発売。シングル。EPレコード
「CITY」
1977年発売。全10曲の2ndアルバム。A面:1.北風、2.ヘアピン・ブルース、3.ブルー・シティ、4.なぐさめ、5.ミッドナイト・ステーション、B面:1.ZIPPOのために、2.夢の旅、3.操車場にて、4.フリータイム、5.東京へ来るな
再生時間 3:11
再生時間 1:08
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