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History of 倉田保昭【第2章】ドラゴン、海を渡る

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History of 倉田保昭【第2章】ドラゴン、海を渡る


日本が誇る和製ドラゴン倉田保昭氏の、生誕から現在に至る60余年の軌跡。

1971年ショウ・ブラザースのオーディションに合格後、海を渡り未知なる香港へ。
そしてその実力を知らしめ、わずか1年でスターの階段を駆け上がる1972年半ばまでのドラゴンの道程です。

ショウ・ブラザース

1971年7月 25歳:ショウ・ブラザース オーディション

香港最大手の巨大映画会社ショウ・ブラザースの社長・ランラン・ショウ(邵逸夫)が来日。

空手が出来る無名俳優を探しているとのことで、俳協から連絡が入る。

正直、当時は香港で映画を作っていることすら知らなかったが、帝国ホテルでのオーディションを受けることに。

ランラン・ショウ(邵逸夫)

面接の手応えは感じられず、諦めかけていたその一週間後、合格の通知を受け取る。

日本で日々オーディションに落ち続けていた自分がなぜ?と戸惑いはあったものの、2週間の香港ロケのオファーを引き受けることにし、その後の大きな飛躍へとつながる小さな一歩を踏み出すのだった。

この運命のオーディション。倉田氏の関連書籍では70年という記述も多く見られます。

日本でのテレビ出演の状況からも、それが70年であるとは考えにくく、また、当時の現地新聞では、71年夏に張徹(チャン・チェ)監督が『惡客(邦題:続・拳撃 悪客)』のロケで日本を訪れています。(『香港アクションスター交友録』では71年春に日本ロケと記述あり。)

オーディションだけは、70年に行われていた可能性もゼロではありませんが、やはり70年ではなく71年が正解なのではと思われます。

1971年9月 25歳:香港映画デビュー

母親が質屋から借り入れた5万円で、いよいよ香港行きが実現。

空手五段、柔道三段、合気道二段の腕前をひっさげ、タンクトップにベルボトムのジーンズという出で立ちで単身香港の地に降り立った。

到着した空港で案内役についていくとそこは記者会見場。4,50人の報道陣に取り囲まれ、質問責めに合う。

いきなりのスター扱いに面食らったものの、何とかその場をやり抜け、ショウ・ブラザースの撮影所に向かうことに。

もちろん実際は日本でもまだ無名の俳優に過ぎず、撮影所までは今にも壊れそうなトラックでの移動だったが。。。

ほどなく、「邵氏影城」と呼ばれる東洋一の巨大スタジオに到着。

邵氏影城遠景

市街地から車で4,50分ほどの山中にある、まるで一つの街かのようなその威風堂々たる姿に、それまでの香港映画に対する疑念は吹き飛び、一瞬にして感動へと変わっていった。

邵氏影城近景

何千人ものスタッフ、最新型の撮影機材、そして広大なスタジオに立ち込める映画人たちの熱気に、激しく心は揺さぶられ、感動で叫びたいほどの衝動に駆られるのだった。

記念すべき香港映画デビュー作 『続・拳撃 悪客(惡客)』は、「ショウ・ブラザースの黒沢明」ことヒットメーカーの張徹(チャン・チェ)が監督を務めた。

そして、ショウ・ブラザースを代表する2大スター、姜大衛(デビッド・チャン)、狄龍(ティ・ロン)の主演作だった。

当時の人気は凄まじく、アクションシーンの撮影現場には2、3000人もの見物客が押し寄せたほどであった。

納得がいくまで何度もアクションシーンにNGを出し続ける、その香港スタイルとも言うべきコダワリの撮影は、有り余るエネルギーを持て余していた者にとっては理想的で、また感動的ともいえるものだった。

張徹(チャン・チェ)と倉田保昭

『惡客(邦題:続・拳撃 悪客)』倉田保昭出演場面1

姜大衛(デビッド・チャン)と狄龍(ティ・ロン)

『惡客(邦題:続・拳撃 悪客)』倉田保昭出演場面2

撮影を3日ほど終えた頃、プロデューサーに呼ばれショウ・ブラザースとの年間契約の話しを持ち掛けられたものの、返答を保留。

また、ショウ・ブラザースを退社したレイモンド・チョウが設立した新興会社ゴールデン・ハーベストからの誘いも受ける。

結局、ショウ・ブラザースとの契約は諸条件があまり良くないと知人に助言され、断ることに。

また、ゴールデン・ハーベストとの契約も、魅力的ではあったが、両者の関係を考えると望ましくないということで、こちらも断らざるを得なかった。

この時の作品が『精武門(邦題:ドラゴン怒りの鉄拳)』で、代わりに橋本力が起用されたことは後に知ることになる。。。

『精武門(邦題:ドラゴン怒りの鉄拳)』、橋本力

最終的に、最も魅力的に感じた張徹(チャン・チェ)監督が出資した新会社・南海影業の仕事を受けることに。

短期間の撮影で、自分を気に入ってくれた監督が声をかけてくれたのだ。

こうして、まだ『惡客』の撮影中ではあったが、昼は『惡客』、夜は南海影業の『小拳王』と昼夜ぶっ通しで掛け持ちすることとなった。

『小拳王』は、当時19歳だった若き孟飛(メン・フェイ)のデビュー作であった。

『小拳王』倉田保昭出演場面1  『小拳王』倉田保昭出演場面3

この時、ショウ・ブラザースとの関係から、ゴールデン・ハーベストの『ドラゴン怒りの鉄拳』への出演オファーを断ったのはやはり残念ですね。
もし実現していたら、ブルース・リーとの共演で意気投合した二人が、その後のリーの出演作でも共演を重ねたに違いありません。
また、演じる予定だった役は、橋本力が演じた日本人・スズキ役だったと言われており、同役のスタントを演じたジャッキー・チェンとも、より親交が深まったかもしれません。(もし、倉田氏がやることになっていたら、ノースタントだったんでしょうか。)

ショウ・ブラザースとの契約延長については、倉田氏の回顧録『和製ドラゴン放浪記』で、面白い逸話を語っています。
要は、その当時の香港のギャラ相場を知らなかったために、大スターでも貰っていないような金額を言ってしまい、それならいいやと断られたという(笑)。実際に、当時の香港の新聞にも、ギャラが高い日本の売れっ子スターみたいな紹介をされていたようです。

  • 続・拳撃 悪客(惡客)

    1971年-香港-映画
    続・拳撃 悪客(惡客)
    監督:張徹(チャン・チェ)
    共演:姜大衛(デビッド・チャン)、狄龍(ティ・ロン)、張徹(チャン・チェ)

  • 小拳王

    1971年-香港-映画
    小拳王
    監督:貢敏
    共演:孟飛(メン・フェイ)、Nard Poowanai、

  • 参考資料
    香港工商日報, 1971-08-19
    張徹(チャン・チェ)、『続・拳撃 悪客(惡客)』の日本ロケ

  • 参考資料
    香港工商日報, 1971-09-15
    倉田保昭紹介記事、『惡客』撮影完了

李小龍と呉思遠

1971年10~12月 25歳:ブルース・リーとの出会い

そんな時、香港に一人のスーパースターが出現。

彗星の如く現れたその青年の名は李小龍(ブルース・リー)。

ブルース・リー『唐山大兄(邦題:ドラゴン危機一発)』

10月に公開された『唐山大兄(邦題:ドラゴン危機一発)』が空前絶後の大ヒットを記録。この年の興行成績ランキングで首位を獲得したのだ。

香港へ来たばかりで余裕の無かった倉田氏は、その存在すら知らなかったが、知人の紹介によって『精武門(邦題:ドラゴン怒りの鉄拳)』を撮影中のリーろ初対面を果たす。

お互い武道家でもある二人は、すぐさま意気投合。
撮影の再会を促す羅維(ロー・ウェイ)監督そっちのけで、武術談義に花を咲かせた。

その後も友情を深め、リーのマンションへと遊びに行く仲に。

ブルース・リー

倉田保昭とブルース・リー1

倉田保昭とブルース・リー2

また、リーは以前アメリカで出演していたドラマシリーズ『グリーン・ホーネット』でヌンチャクを使用したことがあったが、この頃倉田氏がヌンチャクをリーに贈ったことが、その時の『精武門』でヌンチャクが採用されるキッカケになったともいわれている。

ブルース・リー『精武門(邦題:ドラゴン怒りの鉄拳)』ヌンチャク

【補足データ】

またこの頃、ショウ・ブラザースを飛び出した元助監督の呉思遠(ウー・シーユェン)初監督作品に出演を誘われるも、スケジュール的に無理があり断ってしまう。

その作品は『蕩寇灘』で、低予算で作られた作品ではあったが、香港で5月に公開されるや大ヒット。年間12位という好成績を収め、主演の陳星(チェン・シン)、初監督の呉思遠、そして倉田氏の代わりに出演が決まった陳觀泰(チェン・カンタイ)らは一夜にしてスターの仲間入りを果たすことになった。

そして、その成功を見て、出演を断ってしまったことを少し後悔するのだった。。。

呉思遠(ウー・シーユェン)

『蕩寇灘』

さらに、ゴールデン・ハーベストからも茅瑛(アンジェラ・マオ)主演で、サモハン・キンポーが武術指導を務める、『合氣道(邦題:アンジェラ・マオ 女活殺拳)』で再び声がかかったが、やはりショウ・ブラザースとの関係を考えて受けることはなかった。

『合氣道(邦題:アンジェラ・マオ 女活殺拳)』

【補足データ】

1972年1~3月 25歳:一時帰国

ショウ・ブラザースの『続・拳撃 悪客(惡客)』と、南海影業の『小拳王』。2作品の撮影を終え、日本へ帰国。

2月末から『続・拳撃 悪客(惡客)』が公開されヒットを記録。3月には、『小拳王』の公開に合わせて再来港する。

この2本での好演によって評価は急上昇し、再び出演のオファーが舞い込んでくることに。

【補足データ】

一般的に自伝やインタビューなどでは、2週間の予定が、結局3年間帰れなかった・・・というように、数年間日本へは帰っていないと書かれていますが、当時の香港の新聞(下に資料あり)では、一度帰国していたような記事が掲載されています。また、『激突!ドラゴン武術』に掲載されているバイオグラフィーにも、一時帰国が明記されていましたので、ここではそちらの記述を採用しています。

ここで興味深いのは、新聞には「日本で、テレビや映画の仕事で忙しい」とハッタリ(おそらく)をかましているところ(笑)。スケジュール的には3月に一度香港へ行き、5日で帰国。再び4月に『四騎士』出演の為、香港、そしてロケ地である韓国へと行っているようです。

香港スターを目指して

1972年4月 26歳:ふたたび香港へ

香港でスターの地位を確立しようと心に決め、再び香港の地を訪れた倉田氏は、ショウ・ブラザースでの2作目となる『四騎士』に出演するため、韓国ロケに参加。また、ソウルで開催されたアジア映画祭にも列席する。

姜大衛(デビッド・チャン)、狄龍(ティ・ロン)など

『四騎士』では、再び張徹(チャン・チェ)監督はじめ、武術指導の劉家良(ラウ・カーリョン)、姜大衛(デビッド・チャン)、狄龍(ティ・ロン)といった張徹ファミリーとの仕事となった。

『四騎士』倉田保昭出演場面1  『四騎士』倉田保昭出演場面2  『四騎士』倉田保昭出演場面3

『四騎士』に続いて出演したのは、南海影業での2作目『方世玉(邦題:武道大連合 復讐のドラゴン)』

毎日夜間のロケ撮影が続いたが、この作品は特にフィリピンで大ヒットし、『小拳王』に続いて共演した孟飛(メン・フェイ)とともにフィリピンで大スターとなる。

『方世玉(邦題:武道大連合 復讐のドラゴン)』倉田保昭と孟飛(メン・フェイ)

  • 四騎士

    1972年-香港-映画
    四騎士
    監督:張徹(チャン・チェ)
    共演:姜大衛(デビッド・チャン)、狄龍(ティ・ロン)、陳觀泰(チェン・カンタイ)

  • 武道大連合 復讐のドラゴン(方世玉)

    1972年-香港-映画
    武道大連合 復讐のドラゴン(方世玉)
    監督:歐陽俊(蔡揚名)
    共演:孟飛(メン・フェイ)、李琳琳、白虹

1972年5~8月 26歳:出演オファー殺到

その後、初監督作品を断ってしまった呉思遠(ウー・シーユェン)から、再びオファーを受けた倉田氏は、今度は快く『餓虎狂龍』への出演を決める。陳星(チェン・シン)との共演作だった。

アクションシーンで何十回とNGを出す監督に対して、二度とこんな監督とは仕事をしないと心に誓い、ボロボロになるまで体を酷使する撮影。

しかし『餓虎狂龍』は香港や東南アジア全域で大ヒットを記録。

倉田保昭

いざ終わってみると、また一緒に仕事がしたくなり、続く『猛虎下山』へも続けて出演。

『猛虎下山』は2週間のロケだったが、マカオの隣の小島で地獄のような劣悪な環境でのロケとなった。

この作品でも監督の厳しさは相変わらずだったものの、その徹底した完全主義とヒットメーカーとしての力量は確かなもので、その後も度々仕事をすることになる。

そして、いずれもヒットを記録した倉田氏の元へは映画会社から多くの依頼が舞い込んでいた。

『猛虎下山』 倉田保昭

『猛虎下山』 倉田保昭

この頃には、ある程度収入と仕事のメドが立ったこともあり、愛車は当時、香港には2台しかなかった真っ赤なムスタングのオープンカーへと変わっていた。

当時の香港では、悪役俳優は街中で投石されるなど、人々の憎悪の対象になることがほとんどであったが、倉田氏はスクリーンで見せる強面顔からは想像しがたい普段の笑顔と、礼儀正しさ、ファンに対する接し方などで高い好感度を得ていた。

この頃、張徹(チャン・チェ)監督のもとでアクション監督をしていた唐迪が監督を務める『麒麟掌』にも出演。

当初のタイトルは「獨霸拳王」、陳惠敏(チャーリー・チャン)が準主役級でキャスティングされ、ポスターも作られていたが、後に改題され陳惠敏の代わりに倉田保昭氏が起用されることになった。

『麒麟掌』 倉田保昭

李小龍(ブルース・リー) が友人である主演の小麒麟(ユニコーン・チャン)のために武術指導として名前を貸した作品であるが、無断で挿入された映像の中でリーとの幻の共演を果たすことになった。

『麒麟掌』 倉田保昭とブルース・リー、ユニコーン・チャン

そして8月。
第一影業(ファースト・フィルム)からの出演オファーがあり、熱心な勧誘に負け、台湾での5か月間で3本の映画出演を引き受けることに。
しかし、この決断によってこれから自分の身にとんでもない悪夢が襲いかかろうとは、まだ夢にも思っていなかった。。。

謎の作品『爬山虎』。『倉田保昭のチャイニーズ・タイガー』としてリリースされるはずが、中止となった幻の作品ですが、書籍のフィルモにおける『上海猛虎』と同一作品なのではと思っているのですが、どうなんでしょう。

ともに倉田氏が主演で中国人役、劍龍監督作品のようですが・・・。
どちらも公開日は不明(海外サイトに『爬山虎』は72年6月5日公開とありましたが、真偽不明)。『上海猛虎』は『激突!ドラゴン武術』のフィルモグラフィでは、『帰ってきたドラゴン』直前の作品と書かれていましたが、もし『爬山虎』と同一作品でないのであれば、いわゆるニコイチ的な作品?

新聞資料では72年8月の記事(右画像:香港工商日報, 1972-08-19)で、『小拳王』、『方世玉』のあとに5本契約。この後台湾で、南海公司で1本、華夏公司で1本撮影すると書かれていました。結局、その南海作品は不明(もしかすると、後述のギャラ問題で無くなったとか)ですが、華夏の方が『爬山虎』だったんじゃないかと思ってます。そして、あとの3本が第一作品ではないかなと。

香港工商日報, 1972-08-19

倉田氏の自伝本『和製ドラゴン放浪記』によると、『四騎士』の後に出演した独立プロの2本のギャラは結局未払いに終わったと書かれていましたが、その作品は特定できていません。

時期的に考えると、張徹監督がらみの南海影業での『小拳王』と『方世玉』、呉思遠監督の『餓虎狂龍』、『猛虎下山』(後に倉田氏は恆生電影作品に再び出演)、そして『麒麟掌』と謎の多い『爬山虎』。このいずれかだと思われます。

やはり一番怪しいのは、南海影業での2本でしょうか。。。この後、私の知る限りでは南海作品へ新規出演はしていないようですし、80年代にも張徹(チャン・チェ)がらみで、ギャラの未払いが発生しています。さて、真相は?

  • 餓虎狂龍

    1972年-香港-映画
    餓虎狂龍
    監督:呉思遠(ウー・シーユェン)
    共演:陳星(チェン・シン)、黃元申(フアン・ユアンシェン)

  • 猛虎下山

    1972年-香港-映画
    猛虎下山
    監督:呉思遠(ウー・シーユェン)
    共演:陳星(チェン・シン)、黎愛蓮

  • 麒麟掌

    1972年-香港-映画
    麒麟掌
    監督:唐迪(タン・チー)
    共演:小麒麟(ユニコーン・チャン)、孟秋、孟海(マン・ホイ)

  • 倉田保昭のチャイニーズ・タイガー(仮)(爬山虎)

    1972年-台湾-映画
    倉田保昭のチャイニーズ・タイガー(仮)(爬山虎)
    監督:劍龍
    共演:康凱、孫嘉琳

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カテゴリ: スター名鑑.


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