ジェット・リーこと李連杰がはじめての映画『少林寺』に出演、アジア各国に少林寺ブームを巻き起こし、一躍時の人となった頃のお話です。(1980年~1982年)
中国武術界の至宝からアジアの功夫スターに変貌を遂げる時期で、日本でも一大ブームが到来する時期ですね。
幻の『十三棍僧救秦王』と張鑫炎
時は少し遡り、1978年のこと。
3つの映画会社を経営する実業家の廖一原が新たな映画会社である中原電影公司を設立。
その第1作目の作品として、これまでも幾度となく作られてきた少林寺を題材とし、予算200万元の大作映画『十三棍僧救秦王』の製作を決定する。
監督には香港から陳文を起用。
出演者はすべて河南京劇団の役者によって製作されていたが、途中で陳文が病気で監督を降板。
その際、映画会社はそれまで撮影されたものに大変不満を感じ、すでに16万元をかけていたにもかかわらずまだ資金には余裕があったため、これをすべて破棄。
スタッフ、出演者をすべて一から選びなおすことになった。
そこで新たに監督に抜擢されたのが、その頃『白髪魔女伝』で中国ロケの実績があった張鑫炎(チャン・シン・イエン)である。
大役を任された張鑫炎は白紙となった出演者選びに取り掛かる。
そんな時、北京で訪れた武術大会で、ある一人の少年の姿を見て衝撃を受ける。
張鑫炎はその瞬間に思った。
「主役は彼しか考えられない!」
そう、まさにその少年こそ中国武術の至宝、李連杰だったのだ。
また、李連杰以外にも同じ武術大会で孫建魁など10数人に目を付ける。
「これまでにない、本物の少林寺映画をつくろう。」
そう思い立った張鑫炎は、本物の嵩山少林寺の協力を取り付け、撮影の許可をもらう。
それまでに135部も作られたといわれる少林寺映画とは違い、本物の少林寺で撮影し、本物の武術家による真の少林寺映画をつくることを決意、映画は新たに『少林寺』として再スタートすることになった。
張鑫炎との出会い。
ハリウッドでの成功を収めた後、2002年『HERO』の試写に張鑫炎を招待し、久々の再会をした李連杰は言った。
『あなたがいなければ、今の私はいない』と。
20年以上たった後でも感謝の気持ちが薄れることはない。
そんな人物との出会いによって李連杰の運命は大きく変わっていくこととなる。
『少林寺』の撮影
1980年2月、河南省。
リンチェイら出演者に先駆けて嵩山少林寺を訪れたスタッフ達は、その荒れ果てた光景に唖然とする。
寺や土地は荒廃し、見渡す限り広がる山野、草木はどれも1メートルほどの高さに生い茂り、寺に至る道すら無かった。
人家も荒れ果て、人が住んでいる気配もない。
寺には大修道院長、門番、管理人兼料理人の3人の姿しか無く、武術の稽古をしている人など誰一人見当たらなかった。
そして5月。
スタッフと合流した17歳の少年は、荒れ果てた地に辿り着いた。
3か月の間、撮影隊が最低限の環境を整えたとはいえ、短期間でそう変わるものではない。
「これが少林寺?」
もともと少林寺について詳しくはなかった。巷で量産された少林寺映画もほとんど見る機会は無かった。
そんな彼でさえも驚くような光景が見渡す限り広がっていた。
物語は、古くから伝わる有名な少林寺伝説である『十三棍僧救秦王』をもとに、曇宗和尚とその弟子たちが後の唐の太宗・李世民を助け活躍する様を描くものだった。
映画は人民解放軍の全面協力のもと、1000名にも及ぶ解放軍兵士も撮影に参加するという大規模なものとなった。
少年リンチェイと同じく、大陸7省から集められた何十名もの本物の武術家たちは、スタントなしのアクションに全力で取り組んだ。
慣れない演技に多少とまどいは感じたものの、時には1日10時間にも及ぶ撮影は、学校での訓練に比べればリンチェイには容易く、苦にはならなかった。
あるアクションシーンの撮影では、誤って相手の矛が額に刺さってしまい流血。スタッフは撮影を止めようとしたが、リンチェイは、医療班に傷口を縫合してもらい、何事もなかったように撮影に戻った。
夏には炎天下の日々が続いたが、リンチェイにとって何よりも辛かったのは、凍るような冬の河南の寒さだった。
氷の塊が流れてくる黄河に入っての2分ほどのシーンのために、3、4日も撮影を続けなきゃならない。。。
こうして、リンチェイ少年によっての思い出の初映画『少林寺』は81年、ようやく完成した。
廖承志
おおまかな流れは上記本文のような感じだと思われますが、この作品の製作にはある一人の政治家が深くかかわったと言われています。
その人物の名前は廖承志。(wikipedia)
日本にもゆかりの深い中国の政治家で、武術にも詳しかったそうで、「真の愛国映画」を作ろうと、1978年1月31日香港の映画会社との座談会にて少林寺映画の製作を呼びかけたのだとか。(具体的な提案は79年かもしれません。)
脚本の修正にも加わり、出演者は実際に武術が出来る者であること、大陸で撮影することなどの条件を提示したとのことですが、おそらく陳文による初期の撮影版がボツになった背景には廖承志の存在があったのかもしれません。
解放軍や少林寺の協力もこの廖承志あってのことだったのでしょう。
また、公開に関しても大々的な宣伝をバックアップしたことにより、大陸でのヒットを呼び込みます。
映画のヒットのみならず、その後の嵩山少林寺を復興させた立役者ともいえる廖承志は『少林寺』公開の翌年、その成功を見届け永眠したとのことです。
『少林寺』の製作時期
結局、正確な時期は把握出来ていませんので、これまでの文章は下記のような要素をもとに、その前後関係を考慮して私が考えた推測を含んでいます。
- 映画を製作しようとしたのが1978年。
具体的に詳細が決まってきたのは1979年頃。 - 監督交代のタイミングや張鑫炎が武術大会で李連杰を見たのが
その前なのか後なのかは不明。
あるジェット・リーのインタビューでは、11歳の時(1974年)にスカウトされ、5年待っていてくれたとも語っている。 - 実際の撮影開始(もしくは監督交代後の張鑫炎による撮影)が1980年2月。
(ロケハンかも。) - 李連杰が撮影に参加するのは、1980年5月から。
(その後一度戻って7月から本格的撮影。9月からという記述もあり。) - 冬の黄河でのエピソードは80年11~12月。
- 翌81年3月の時点で、大陸での撮影はすべて終了し、香港での撮影を行っている。
(この時点での撮影終了予定は4月末。) - 最初の公開は香港での82年1月21日。
(東南アジアが先かも。いずれにしても82年1月。)
具体的な年月がわかっているのはこのぐらいです。
また、劇場パンフでは撮影期間は1年半。李連杰のインタビューなどでは撮影に12か月以上、冬(寒い時期)を2度経験とあります。
製作費に関しても諸説あり、200万元、120万元、1,000万HK$など。。。
大公報, 1980-02-20
(クランクイン)華僑日報, 1980-07-25
(撮影順調、張鑫炎動向)華僑日報, 1981-03-25
(撮影の近況など)華僑日報, 1981-03-26
(李連杰について)
『少林寺』公開とその影響
『少林寺』撮影後、リンチェイは内側靭帯、十字靭帯、外側半月板を断裂し手術を受ける。
手術は7時間にも及び、2か月の入院を要した。
手術は成功したものの、完治したとは言えず、医者からは「歩けるようになることは保障するが、激しい運動はもうできないだろう」と告げられる。
そして国から三級障害と認定された。
しかし、この事実は映画関係者らの手によって長らく封印されることになった。
リンチェイは静養中、今後の自分の人生に大きな不安を抱え、絶望感に浸りながら、映画『少林寺』の公開を迎える。
彼が望むのはただ「中国武術を高める事」。
それはより多くの人に中国武術の素晴らしさを知ってもらうことでもあった。
1982年1月21日香港。映画『少林寺』初公開。
結果は驚くべき大ヒットを記録。最終的な製作費120万元(約1億6千万円)に対して、香港だけで1,600万HKドル(約6億2千万円)を稼ぎ出し、ジャッキー・チェンの『ドラゴンロード』も抜き去り、その年2位となる好成績を残す。
これにより、これから続けて公開されるアジア各地でのヒットを確信した映画会社は設立第二弾の作品として『太極拳』の製作を決定、夏から撮影を開始すると発表した。
その後6月には中国本土で公開され、9,000万人もの国民が『少林寺』を鑑賞。なんと1億200万元(約120億円!)の興行収入を叩き出し、この年のNO.1に輝いた。また、フィリピンをはじめアジア各国でも軒並みヒットを飛ばす。
莫大な利益を生んだ『少林寺』だったが、出演者は主役のリンチェイを含め、謝礼金(出演料)としてみな1日1元(約130円)しか貰っていなかった。
これは当時の中国の平均月収が60元ほど、大学教授が88元ほどだったことから考えても非常に少ない金額だった。
この成功を受け、リンチェイのもとに香港の映画会社からこぞって出演依頼が舞い込んだ。出演料の相場は300万元だったり600万元だったりと莫大な金額であったが、中国という国家のもと、武術団に属しているリンチェイはそうした会社と契約することは不可能だった。
巨額の利益を得た映画会社は中国での成功を見届け、8月には早くも次回作の製作を開始。
当初予定していた『太極拳』の製作は延期し、『龍鳳村』という作品を『少林寺』と同じメンバーで製作することに。タイトルはその後『少林小子』へと改題された。
香港公開後の好成績を伝える新聞記事です。
大公報, 1980-02-20
(クランクイン)華僑日報, 1980-07-25
(撮影順調、張鑫炎動向)華僑日報, 1981-03-25
(撮影の近況など)華僑日報, 1982-12-30
(興行成績2位)
この時期、幻となった作品がこちら。
■2012年5月20日更新
『太極拳(神拳無敵)』
さらには、ジャッキー・チェンの出現で功夫映画ブームに沸いていた日本での公開も11月に決定。
その頃日本では、数年前大ブレイクしたジャッキー・チェンの映画が、4月の『ドラゴンロード』以来公開されておらず(ジャッキーはこの時『プロジェクトA』撮影に没頭)、新しい功夫映画に飢えていた市場はまさに絶好のタイミングだった。
かくしてリンチェイは、公開直前の10月16日、『少林小子』の撮影の合間を縫ってプロモーションのため初来日。
この時、『少林小子』の撮影で着用するかつらがすべらないように髪をのばしてパーマをかけていた少年は、その純朴な人懐っこい笑顔で日本のファンを魅了する。
一緒に来日した共演者の于承惠(ユー・チェンウェイ)ら3人と共に数多くの取材やテレビ出演をこなしていたが、来日4日目、大阪での『11PM』出演直前にリンチェイの足が突然痛み出し、本人の希望むなしく演武が中止となるアクシデントにも見舞われた。
そしてハードスケジュールの5日間の滞在を終えたリンチェイら4人は、撮影現場の広西省桂林へ戻っていった。
雑誌では「アイドル」リー・リンチェイの特集記事が組まれ、テレビでも特別番組が放送。少林寺の名を冠する映画が劇場やテレビで続々と放映され、少林寺拳法を習う者も急増するなど日本に一大少林寺ブームを巻き起こした。
『少林寺』基本データ
【監督】張鑫炎(チャン・シン・イエン)
【出演】
李連杰(ジェット・リー)、于海(ユエ・ハイ)于承惠(ユー・チェンウェイ)、
丁嵐(ディン・ナン)、胡堅強(フー・チェンチアン)、孫建魁(チャン・チェン・フー)
計春華(チー・チェンホア)
【製作】(1978年~)1980年~1981年
【製作費】120万元
【公開】1982-01-21(香港)、1982-06-01(中国)、1982-11-03(日本)
【興行成績】1,600万HK$(香港2位)、16.5億円(日本6位)、1億200元(中国1位)
再生時間 3:01
再生時間 9:14
再生時間 3:02
この他の動画や詳しい情報は、少林寺(1981)の記事をご覧ください。
嵩山少林寺に人々が殺到
1974年から1978年の5年間に少林寺を訪れた観光客は20万人前後。
これが映画『少林寺』公開後の1982年に訪れた観光客は1年で70万人にも上り、嵩山少林寺を目指して家出人が続出するほどになった。
さらに最高期の1984年になるとなんと260万人もの人が訪れる一大観光名所となった。
その後、90年以降はブームも落ち着いたが、それでも150万人前後の観光客が毎年訪れるようになった。
また、近年再び少林寺が協力したTVシリーズや映画が多数つくられるようになり、現在では200万人ほどが毎年少林寺を訪れるという。
日本で少林寺ブーム
ブルース・リー、ジャッキー・チェンと既に下地が出来ていた日本でも『少林寺』は大ヒットを飛ばし、一大少林寺ブームを巻き起こします。
映画雑誌では、李小龍、成龍と並び李連杰は「クンフーアイドルBIG3(笑!)」として、まさにアイドル扱いされ、「武術(うーしゅう)」に代表される中国武術の専門誌まで発刊されました。
また、『少林寺』と名のつく作品が続々とテレビ、劇場で公開され、劇場での代表的なものとしては、『少林寺三十六房』や『少林寺への道(原題:少林寺十八銅人)』がとっても有名ですね。
『少林寺への道』は76年の作品で、香港では11位。『少林寺三十六房』は78年の作品で、香港では8位とともに『少林寺』より古い作品(当時はしらなかったな~)ですが、ヒット作ではありました。
(ちなみに95年の作品で『少林寺十八銅人(原題:銅馬鐵燕傳奇または少林十八小銅人)』という怪作も存在します。。。)
私管理人も、多分に漏れず劇場へと通ったものです。『少林寺三十六房』によって、修行と称する友人との遊びのバリエーションが大分広がり、『拳精』『龍拳』のトンファーから三節根へと私の自作武器が変化しました(笑)。『少林寺への道』は木人ならぬ銅人(っていうか金人・・・)のインパクトは今でも強烈に脳内に焼き付いてます。
話がそれましたが、テレビでも82年の『冬休み特別プレゼント・少林寺拳法の脅威』や83年の『新春特別企画:熱狂ブーム!噂の少林寺拳法だ』などの特別番組が放送され、極めつけは84年の水曜スペ『必殺!中国少林寺に衝撃の死闘を見た!』という伝説のヤラセ番組(詳しくは後述)まで誕生しました。
85年には『李連杰と過ごす、武術ファン日中交流ツアー』なるものも企画(5泊6日で158,000円×募集120名)されたりしています。
個人的にも、ジャッキー作品を含め、82年から86年あたりは一番濃い功夫ライフを送っていたのではないかと思われる素敵な時代でした☆(しみじみ)
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