日本が誇る和製ドラゴン倉田保昭氏の、生誕から現在に至る60余年の軌跡。
1972年、日本との関係が悪化する台湾へ渡り、作品を量産。
しかし、その陰には黒社会の存在と落とし穴が待っていた。。。10か月に及ぶ台湾での苦闘の暗黒史。
いざ台湾へ
1972年9月 26歳:日中国交正常化
台湾出発の準備を進めていた9月29日。倉田氏にとって、ショッキングなニュースが飛び込んできた。
当時の首相・田中角栄による、30年ぶりの日中国交回復のニュースである。
これにより、台湾と日本の関係は急激に悪化。台湾では反日・排日運動が活発化し、現地の日本人も身の危険を感じ、皆帰国する事態となった。
このニュースを受け、第一影業に契約キャンセルを申し出るも、契約解除は受け入れられず、結局、大きな不安を抱えたまま、台湾へと向かうことになってしまった。
1972年10~11月 26歳:王羽(ジミー・ウォング)
台湾での出演1作目は”天皇巨星”とも言われた大スター、王羽(ジミー・ウォング)主演の『ドラゴンvs不死身の妖婆(英雄本色)』だった。個人的にファンでもあった王羽との共演が、危険な台湾での撮影を引き受けた一因でもあったのだ。
王羽は、実生活のトラブルや契約問題などから拠点を台湾へと移し、ブルース・リーの出現などにより一時期ほどの人気ではなかったとはいえ、未だに大スターであることには違いは無かった。
台湾へ着いて早々に、生水が原因と思われる重度の腹痛に見舞われるも、到着3日目から撮影が開始。
しかしその撮影初日、再びトラブルが降りかかる。
十代後半と思われる若者が撮影現場に乱入、倉田氏を狙って日本刀を振りかざしたのである。
危うく本当に斬りつけられるところだったが、なんとかスタッフが男を取り押さえることに成功する。
当時の台湾では悪役俳優のほとんどが、本物の黒社会の人間で占められていたため、その領域を侵しに香港からやってきた倉田氏を狙った刺客だったのだ。
なんとか気を取り直して翌日から再開された撮影に臨むも、これまでとは違い何ともすんなりとOKが出る撮影に物足りなさを感じつつも撮影は進む。
その後も、エキストラから喧嘩を吹っかけられたり、子分役の俳優がタクシー運転手に殺害されたりと物騒な事件やトラブルは後を絶たなかった。
しかし、なんとか2か月で無事撮影は終了。さっそく2作目の作品に取り掛かることに。
1972年12月~1973年2月 26歳:撮影ラッシュ(台湾-前期)
第一影業での2作目は、台湾一の女性アクションスター・上官靈鳳(シャンカン・リンホー)との共演作『趕盡殺絶』だった。
上官靈鳳のメイク時間のあまりの長さで忍耐力を鍛えられつつ、撮影はなんとか無事に終了。
年が明け、常に危険と隣り合わせの過酷な環境は変わらないまま、台湾へ来て4か月目になろうとしていた。
第一影業での第3作目、『死對頭』は早撮りで有名な劍龍監督によって約20日間で撮影され、金剛と共演。
また、この時期、第一影業以外でも、新人の張艾嘉(シルヴィア・チャン)と王冠雄が初主演した立基娯楽の『飛虎小霸王』にも特別出演。
同時に、他の映画会社からも執拗に出演のオファーがあったが、どれも黒社会がらみの会社ばかりであった。
そして迷いながらも、第一影業での4本目、そして他の会社のオファーも追加で受けてしまうのだった・・・
1972年-台湾-映画
ドラゴンvs不死身の妖婆(英雄本色)
監督:丁善璽
共演:王羽(ジミー・ウォング)、龍飛(ロン・フェイ)1972年-台湾-映画
趕盡殺絕
監督:岳楓(ユエ・フォン)
共演:陳星(チェン・シン)、上官靈鳳(シャンカン・リンホー)1973年-台湾-映画
死對頭
監督:劍龍
共演:金剛、李強1973年-台湾-映画
飛虎小霸王
監督:湯生
共演:張艾嘉(シルヴィア・チャン)、王冠雄、参考資料
華僑日報, 1972-10-23
女性関係、『英雄本色』撮影済み、現在:『趕盡殺絕』参考資料
華僑日報, 1972-12-05
『餓虎狂龍』公開参考資料
華僑日報, 1973-01-13
香港に来てからと現在の状況など参考資料
華僑日報, 1973-01-15
倉田保昭人物紹介参考資料
華僑日報, 1973-01-21
現在『飛虎小霸王』撮影中参考資料
香港工商日報, 1973-01-21
南海の2本のあと、香港に滞在を決める。今台湾で忙しい。参考資料
香港工商日報, 1973-01-24
ここ半年、香港と台湾で活動。ギャラ5万HK$。 新作『猛虎下山』公開。
再生時間 4:02
再生時間 5:38
再生時間 0:59
この頃の新聞記事に、倉田氏のギャラについての記事がありました。その金額は1本5万HKドル。日本円でいうと、約270~300万ぐらいでしょうか。当時のサラリーマンの平均年収の倍ほどの金額だと思います。
3年前、ショウ・ブラザースが最初にブルース・リーに提示したギャラが9,000HKドル。3年後にジャッキー・チェンが、羅維のもとで主演した時(ブレイク前)のギャラが、月3,000HKドル(武術指導で+9,000HKドル)。『ファイナル・ドラゴン』の時のジミー・ウォングのギャラが5万HKドル。。。ということを考えると、かなり破格と言えるかもしれません。
そして、この後の作品ではさらに、6万、7万、8万・・・とギャラは高騰していくのですが、落とし穴が待ち受けているわけです。
量産体制
1973年3~5月 27歳:超過密スケジュールで量産(台湾-中期)
台湾に来て既に半年が経過。相変わらず周囲はゴタゴタで騒がしく、常に黒社会がらみの揉め事は絶えなかった。
この頃には1本の出演料も、6~7万香港ドル(日本円で約350~410万円)にまで上昇。 その後も次から次へと舞い込んでくる出演オファーを断りもせず、1日3本を掛け持ちする超過密スケジュールがひたすら続いた。
寶樹影片の『用心棒ドラゴン(大小通吃)』もその中の一つで、女流監督・高寶樹(カオ・パオシュー)監督のもと、黃元申(フアン・ユアンシェン)や胡錦(フー・チン)などと共演。
また、華夏影業では徐健秋製作による『強中手』、『狂龍出海(除暴)』という、共に陳洪民監督作品に参加。
得利影業では、鄧光榮(アラン・タン)と共に、若手アクション監督の鬼才と呼ばれる侯錚監督の『倉田保昭の激怒の鉄拳(怒髮衝冠)』を撮り上げた。
第一影業でも、同じく侯錚監督のもと2本撮影。『女英雄飛車奪寶(七對一)』では再び上官靈鳳(シャンカン・リンホー)と共演、クラブ歌手を演じ、これまでも共演が多い陳星(チェン・シン)とで『黑豹』を撮影した。
さらに第一影業では、『女ドラゴン!血闘の館(雙面女煞星)』を続けて撮影。上官靈鳳(シャンカン・リンホー)と3度目の共演を果たす。
この時期、徐健秋監製による華夏影業作品の契約をしたことが新聞に書かれていますが、それが『強中手』と『狂龍出海(除暴)』どちらなのか、それとも2本ともなのかハッキリしていません。特に『狂龍出海(除暴)』に関しては、倉田氏ご本人の記憶にないということで、謎が多い作品です。
参考資料
華僑日報, 1973-03-13
第一3本契約(英雄本色、趕盡殺絕、死對頭)、昨日「大小通吃」、さらに華夏の1本契約。監製, 徐健秋⇒強中手か狂龍出海(除暴)参考資料
華僑日報, 1973-04-23
「女英雄飛車奪寶」、「黑豹」。「雙面煞星(雙面女煞星)」参考資料
香港工商日報, 1973-04-27
「女英雄飛車奪寶」参考資料
香港工商日報, 1973-05-08
ギャラは1本6~7万に。既に台湾に半年。撮影完了「怒髪沖冠」(我是中国人)得利公司参考資料
香港工商日報, 1973-06-02
「怒髮衝冠」参考資料
香港工商日報, 1973-06-23
「怒髮衝冠」公開。いま唐寶雲と共演(得利の大追踪)参考資料
華僑日報, 1973-07-09
「女英雄飛車奪寶」公開、演歌
1973年-台湾-映画
用心棒ドラゴン(大小通吃)
監督:高寶樹(カオ・パオシュー)
共演:黃元申(フアン・ユアンシェン)、胡錦(フー・チン)、1973年-台湾-映画
狂龍出海
監督:陳洪民
共演:江彬、衛子雲1973年-台湾-映画
強中手
監督:陳洪民
共演:田野、陳強1973年-台湾-映画
倉田保昭の激怒の鉄拳(怒髮衝冠)
監督:侯錚
共演:鄧光榮(アラン・タン)、韓英傑(ハン・インチェ)1973年-台湾-映画
女英雄飛車奪寶
監督:侯錚
共演:上官靈鳳(シャンカン・リンホー)、邵羅輝1973年-台湾-映画
黑豹
監督:侯錚
共演:陳星(チェン・シン)、燕南希1973年-台湾-映画
女ドラゴン!血闘の館(雙面女煞星)
監督:王洪彰
共演:上官靈鳳(シャンカン・リンホー)、金剛
再生時間 1:28
再生時間 2:45
再生時間 1:08
再生時間 1:15
再生時間 0:37
再生時間 0:56
再生時間 3:18
大きな落とし穴
1973年6月 27歳:出国禁止(台湾-後期1)
渡台9か月になろうという頃、税務署から呼び出され、日本円で5,000万円もの税金が未払いだと告げられる。そして、それを支払わない限り台湾から出国出来ないというのだ。
ギャラは香港で支払われることになっていたため、台湾で税金を払う必要はないと思っていたのだが、実は3か月に一度は出国していれば非課税だったのだが、そんなことは知らなかったのである。すべて映画会社のスタッフにまかせっきりだったのだ。
出演を断られた映画会社による密告、また、任せていた映画会社にとっても滞在を延期させて莫大な金額を課税させ、その支払いのために映画に出演させ続けようという魂胆だったようだ。
その後、出国を試みてみたものの、既に手配書が回っていてとても脱出できそうにはなかった。
その時、映画会社2社が、弁護士を紹介する代わりに2,3日出演して欲しいと言ってきたため、藁にもすがる思いで受諾。
結局、そこそこの報酬は貰えたものの、弁護士はまるで役に立たなかった。
なんとかかき集めたお金では、到底払える金額でもなく、一人異国の地で絶望しながらも映画の撮影を続けていくしか道は無かった。。。
参考資料
香港工商日報, 1973-07-12
税金で出国禁止。英雄本色、趕盡殺絕、死對頭、非打不可(兩虎惡鬥)、雙面女煞星、黑豹、虎拳、女英雄飛車奪寶参考資料
華僑日報, 1973-08-18
「飛虎小霸王」公開、プロモの為20日来港予定だが、出国禁止参考資料
華僑日報, 1973-08-25
税金問題で出国不可、50万元台幣、英雄本色、趕盡殺絕、死對頭、黑豹、雙面女煞星、非打不可(兩虎惡鬥)、虎拳、女英雄飛車奪寶など。中期以降ギャラ5~6万HK$
第一影業では、前月に台湾で公開された『死對頭』が好成績を収めたことで、続編である『兩虎惡鬥(非打不可)』が、前作と同じく劍龍・金剛とのトリオで撮影されることに。
続けて撮影された、劍龍監督の『虎拳』では、陳星(チェン・シン)とのぶっつけ本番のアクションシーンを撮影し、ペースを早める。
そして得利影業での2本目、『倉田保昭の大追跡(大追踪)』も続けて撮影された。
1973年-台湾-映画
兩虎惡鬥
監督:劍龍
共演:金剛、山茅(サン・マオ)1973年-台湾-映画
虎拳
監督:劍龍
共演:陳星(チェン・シン)、龍飛(ロン・フェイ)1973年-台湾-映画
倉田保昭の大追跡(大追踪)
監督:張美君
共演:唐寶雲、蔡弘
再生時間 1:32
再生時間 15:00
再生時間 1:14
1973年7~8月 27歳:友の死と台湾からの脱出(台湾-後期2)
7月20日、台湾から脱出できず、相変わらず撮影漬けの日々を送っていたところに突然の訃報がトップニュースで飛び込んできた。
友人でもある李小龍(ブルース・リー)が突然亡くなったというのだ。
最初はとても信じられなかったが、香港の友人や最期を見届けたベティ・ティンペイ(丁珮)にも連絡をして、はじめてそれが本当のことなんだとようやく認識できた。
死因については様々な憶測が流れ、悲しみに暮れる友人やリーの家族を近くで支えてあげることもできない自分が、とてももどかしく感じるのだった。。。
友の死は、再び台湾からの脱出を決意させた。
友人の伝手で「運び屋」に依頼。決行日は翌日となった。
7月21日朝、袋に入り車のトランクに詰め込まれ、不安に押しつぶされそうになりながらも、じっと待つこと約40分。
いよいよ運命の脱出の瞬間がやってきた。
しかし、あと一歩でフェリーにというところで、審査官に見つかってしまい、あえなく失敗。
そして2日後、友の死と脱出失敗という失意の中で、香港でのリーの葬儀をテレビを通して見ることに。
若くして儚くも逝ったスーパースターの死を想い、香港中が泣いた。そして自分も。。。
脱出失敗の翌日、新たに出演依頼が入ったが、とてもそんな精神状態ではなかったため、断ることに。。。
ただ、以前から参加している撮影は、放り出すわけにはいかなかった。
そこで、なんとか撮影には参加するものの、そこには出演を断った会社のチンピラが複数やってきた。
そして地下牢のような場所に拉致監禁。
ナイフで脅され、半日ほど監禁された後、ようやく解放される。
ただし、血の儀式で5日間の撮影参加を約束させられてからだったが。。。
監禁事件から約1か月後の8月末、その日は監禁されて出演を承諾した作品の撮影初日だった。
しかし、その足は撮影現場では無く、空港へと向かっていた。
実は、無理難題とも思えた大金を、ようやく用意できたのだった。
捕まれば台湾マフィアから凄惨な報復を受けることは承知の上。
だが、もうこんなところにはとてもじゃないがいられなかった。
こうして税として大金を収め、一路香港へと飛び去ったのだ。
この頃の作品で全く新聞にも登場せず、製作時期が不明なものが今日影業の『狼對狼』です。出演場面が少ないことを考えると、最初の台湾脱出失敗のあとに持ち掛けられた2,3日の出演というのが怪しいかもしれません。ちなみにリリース時期については、74年2月の新聞に記述がありました。
『大小游龍』については9月7日に撮影中の記事が見つかっていますので、おそらく台湾脱出直前に参加していた作品ではないかと思います。(その記事の時点では、倉田氏は既に台湾にはいませんが。)
台湾中盤から後半にかけての作品については、新聞記事を元にしていますが、具体的な撮影時期が不明なものも多く、順番や時期は微妙に違う可能性があります。脱出失敗から約1ヶ月で税金を納めたということを考えると、ラスト1ヶ月にもっと作品が集中していた可能性もあります。
さて、この税金ですが、『和製ドラゴン放浪記』によれば、その金額はなんと日本円で5、000万円と書かれています。
新聞記事によれば、50万台湾ドルの未納で、最終的には120万台湾ドルを支払ったようです。(追徴金?)単純に当時のレートで換算すると、おそらく1,000万円ぐらいでしょうか。
倉田氏がこの10ヵ月間で撮影した台湾作品は16本。1本6万HKドルと仮定すれば、合計96万HKドル(日本円で、約5,000万円)となるので、実際のところは総収入が5,000万円で、税金が1,000万円ということだったのではないでしょうか。いずれにしても大金です。。。
1973年-台湾-映画
狼對狼
監督:王洪彰
共演:陳強、程清、江洋1973年-台湾-映画
大小游龍
監督:侯錚
共演:上官靈鳳(シャンカン・リンホー)、金剛、参考資料
華僑日報, 1973-09-07
「大小游龍」撮影中参考資料
華僑日報, 1973-08-31
香港戻り、記者に説明。120万台湾$。9月初めに日本へ戻り、半月後に香港へ戻る予定。
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