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ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-

ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-


ジェット・リーこと李連杰が全中国武術大会において前人未踏の五連覇を成し遂げた頃のお話です。(1974年~1979年)

北京武術団のメンバーとして30か国をまわりながらも武術の腕に磨きをかけ、大会五連覇を達成し、「中国武術界の至宝」と呼ばれた黄金の少年期になります。

中国武術界の至宝

1974年、USツアーから北京に戻った一行は西安での第1回全中国武術大会出場のため、すぐに武術の訓練を再開する。

大陸各地から、個人、武術団、体育学校の猛者たち数万人が集まり、その中から800名が選出。
6種目に参加し、それぞれの点数で各種目チャンピオンが、そして合計点で総合チャンピオンが決まる大会である。

そこでリンチェイは悪性の風邪による高熱に耐えながらも見事な技の数々を披露。

結果、刀術・規定拳の種目別チャンピオン、そして少年の部において総合個人チャンピオンの栄冠を獲得した。

中国武術界の至宝、天才少年リー・リンチェイ誕生の瞬間であった。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

「お母さんが私を育てたのは無駄ではなかった・・・」

その時、少年の心の中は愛する母親への想いでいっぱいだった。

この辺の流れについては、ジェット・リー自身の話しから組み立ててありますが、もしかしたらUSツアーとは時期が前後するかもしれません。

武術団の正式発足が11月ということを考えると、この大会の優勝の後にUSツアーに行ったのかもしれませんね。

覇業

リンチェイは翌年75年にも昆明での同大会に出場。

前回の優勝により弱冠12歳ながらも、飛び級扱いで18歳以上の部で競技することを許されていたリンチェイは、拳術・刀術・規定拳・規定槍・対練の全種目で優勝し、総合でも成人の部でチャンピオンに輝く。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

さらに同年、北京で第3回全国スポーツ大会が開催。

刀術の予選競技の際、誤って自らの頭部を切りつけてしまい出血するも本人は気付かず演技を終える。

そしてケガを押して出場した本大会で、 拳術・刀術・対練の3種目で優勝、規定拳・規定槍の2種目で準優勝、そして個人総合優勝を成し遂げる。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

続く76年、北京武術チームは国際親善ツアーへ。

ヨーロッパ中の都市、アジア、アフリカ、中東で上演を行う。
この年、全中国武術大会は遠征のため不参加となった。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

翌77年は、内蒙古で開催された全中国武術大会において拳術・刀術の2種目で優勝、個人総合優勝を果たし出場大会3連続でのチャンピオンに輝く。

また、北京武術チームとして再びアフリカへのツアーを2か月間行った。
少年は結局この武術団において計30か国に及ぶ世界各地を公演でまわっている。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

1978年、15歳へと成長したリンチェイ少年は、北京で開かれた全中国武術大会においても拳術・刀術・槍術・規定拳・対練の5種目優勝、そして4連続の個人総合優勝を果たす。

この時、一人の映画人がその少年の雄姿を見つめていた。
そしてこの人物は、のちに少年の人生を大きく変えることになる。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

1979年、北京武術チームとしてイギリスなど各国をまわりながらも、河北省で開かれた第4回全国スポーツ大会に出場し、拳術・規定拳・刀術・対練の4種目で優勝、75年の前大会に続き総合でも個人優勝を達成。

さらに長沙での全中国武術大会において拳術・規定拳・刀術の3種目優勝、伝統器械で準優勝、そして個人総合で前人未踏の5連続チャンピオンに。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

中国の至宝と謳われ、栄光の道をひた進むリンチェイ。

しかし、終わりは突然訪れる。

膝の前部十字靱帯断裂

このケガにより、スポーツとしての武術の世界から事実上の引退を余儀なくされる。

そして、これから先何年にも渡りそのケガに苦しめられることになる。

いつしか、リンチェイの興味は舞台劇へと移っていた。

暇さえあれば舞台劇の練習に励んでいたが、あくまで趣味にすぎず、まさか自分が映画の主役を演じることになるとは夢にも思っていなかった。

しかし彼の元には様々な映画の出演要請が殺到。

そして、新たな李連杰伝説がはじまりつつあった。

武術大会

いくつかこの頃の武術大会に関しての新聞記事があったので載せておきます。
(画像クリックで拡大されます。※李連杰の名前は出てきません。)

  • 72年武術大会(大公報, 1972-11-18)

    72年武術大会(大公報, 1972-11-18)

  • 74年武術大会(大公報, 1974-09-04)

    74年武術大会(大公報, 1974-09-04)

  • 77年武術大会(大公報, 1977-08-19武術大会)

    77年武術大会(大公報, 1977-08-19武術大会)

実際のところ、引退という表現は適さないかもしれません。
大会への出場はこれ以降無かったものの、ジェット・リー本人はその後も武術大会への出場を希望していたようです。
しかし、82年に『少林小子(少林寺2)』撮影中、新技を開発中(これは武術大会のためという話も)に再び膝を痛めたことで、大会への出場は叶わず、その後も膝が全快することなく、85年に学校を去ったことで選手としての生命は完全に終わったと言えます。

李連杰と甄子丹

同じ1963年に生まれた2人。

北京市業余体育学校の同期生と語られる2人ですが、実際はどうだったのでしょうか。

90年代後半頃のとあるインタビューでドニー・イェンは
「北京の体育学院で学んだとか言われているけど、あれは全部大ウソ(笑)」
と発言。

また、ドニーとも親交の深い谷垣健治氏の著書によれば、本人に北京時代の思い出を聞かせてもらった時に、ジェットとは師兄弟にあたり、当時の『少林寺』メンバーとも一緒に練習をしていたが、ジェットはドニーが北京にいた2年間は『少林寺』の撮影でずっと留守にしていたので、唯一親しくなる機会がなかったと書かれています。

先述のインタビューに関しては、あくまで武術を学んだのは母親からで、学校で身に着けたのではないという意味だったのでしょうね。

また、「スクリーン・デラックス JET LI」に掲載されていた李霞さん(武術学校での李連杰の姉弟子)のインタビューに詳しい記述があります。

李連杰と甄子丹ともに親しい李霞さんによれば、ドニー・イェンは18歳の時の約1年間、同じチームで李霞さんが世話係だったと(甄子丹は問題児だったようです(^_^;))。で、その時ジェット・リーとドニー・イェンは別の練習グループだったが同じ場所で鍛錬していたとのこと。

ドニーは当時から脚技が得意だったらしく、それを見たジェットが「彼の脚、スゴイな~」とよく言っていたそうです。

一時期はドニーもジェットに対して相当対抗意識があったと思いますが、もしこの時入れ違いではなく、2人が親しくなっていたとしたらどうなっていたんでしょうね~。

『ジェット・リー物語【第3章】中国武術界の至宝 -1974~1979-』のエピソードショット

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カテゴリ: 功夫皇帝-ジェット・リー物語.


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