今回はいよいよ大詰め、後編最後の作品になります。『バトルクリーク・ブロー』、『キャノンボール』でアメリカ市場に進出するも思うような結果を残せず、81年に再び香港にて『ドラゴン・ロード』による再起を図るまでの約1年間の動きを追ってみたいと思います。
- ドラゴンロードの謎
- 後をひく契約問題と韓国ロケ
- ロー・ウェイ、『ドラゴンロード』を獲得し長い契約問題が集結
- 『ドラゴンロード』、1年間の製作過程
- 『ドラゴンロード』まとめ
- いよいよ公開、謎の興行成績
- 商品情報
ドラゴンロードの謎
いよいよ、羅維時代として見てきた70年代後半からのジャッキー追跡劇もこの作品で最終となります。
一般的には、膨大な時間とフィルムを使った作品、スポーツを取り入れた新しい功夫映画、その割にはあまり評価されない作品として(おそらく)認知されている作品だと思っていますが、実は細々とした謎が隠されている作品なのです。
まずは、これは最近気付いたことなんですが、私の中では完全なゴールデンハーベスト作品として認知されていたにもかかわらず、出品公司の中にゴールデンハーベスト、ジャッキーの拳威影業とともに羅維影業の名が・・・。
結論を先に言ってしまうと、羅維との契約問題のツケとして、世界版権が羅維の手に渡っていたようなのです。
で、さらに調べるうちにわかったのですが、当初はこの作品「羅維作品」として製作されていたようなのです。まずは『ドラゴンロード』の製作過程を時系列順に新聞記事とともに見ていきましょう。
後をひく契約問題と韓国ロケ
1980年10月:韓国で新作準備中
まさに『バトルクリーク・ブロー』が香港で公開されようとしている10月半ば、ジャッキーは韓国に居ました。
- 新聞記事:1980年10月13日『工商日報』|成龍韓国に滞在中
本来は陳誌華の作品に携わるはずだったのが、羅維の作品を撮らなければならないので計画を変更したということでしょうか。ちょっと訳に不安があります。80年代前半に陳誌華の作品でそれらしいものは見当たらないので、もしかしたらこれが『三十六迷形拳』?とも思ったのですが・・・。
その後、『バトルクリーク・ブロー』の公開に合わせ香港へと戻ります。
- 新聞記事:1980年10月22日『工商日報』|羅維新作撮影のため韓国へ
そして10月23日には、「羅維の新作」を撮るために韓国へ再び飛びます。余談ですが、この頃のジャッキーは女性問題でも注目されていたようで、以前から噂の絶えない米雪や、林青霞や鄧麗君なんかとの関係が取り沙汰されていました。
1980年11月:月末にロケ隊韓国へ
クランクインの予定は11月11日だったようですが、ジャッキーはこれを延期して月末に日本でクランクインすると言いだします。
- 新聞記事:1980年11月11日『工商日報』|成龍クランクインを延期、月末日本で
韓国は交通が不便で、映画産業が未成熟、撮影所も応用が利かないなんてことが原因のようです。
そしてこの段階での新作、つまり『ドラゴンロード』の概要は、出演者として馮克安、張沖、陳勳奇、ヒロインには新人を起用、そして監督には薛志雄(ルイス・シット)が予定されていたようです。(DVD特典でインタビューされている人)また策劃(製作管理のようなもの)は何冠昌が担当ということで、羅維作品とはいいつつも実際はゴールデンハーベストのスタッフで固められていました。
8月の話し合いでゴールデンハーベストが羅維にお金を支払うことでスッキリしたと思ったのですが、どうやら羅維の為に1本撮らなければならなくなったようです。
ただ、さすがに羅維の指揮のもとで作品を作ることだけは納得できなかったのか、製作はゴールデンハーベストが担当することに。
そして、この『ドラゴンロード』の香港と東南アジアでの興行権は羅維に、それ以外の世界興行権はショウブラザーズに渡ることになってしまいます。(ショウブラザーズが絡んでいるのにも何かワケがあると思うのですが未だ不明です。)
11月末、ロケ隊が韓国に向かいます。しかし、韓国は大雪。
1980年12月:来日とキャスト選出
翌12月、ジャッキーはふたたび日本へ。おそらくファンクラブ関係だと思われます。そして韓国へ行き撮影を続行。
- 新聞記事:1980年12月19日『工商日報』|成龍、日本から韓国へ
これによると、製作費は150万ドル(約3億7,500万円)を予定していたようです(最終的には460万ドル=11億5,000万円ほどかかった)が、これを色々と難癖を付けて羅維が拒否したと・・・、なんだか羅維マル儲けです。
続いて『ドラゴンロード』のキャストに関しての続報。
- 新聞記事:1980年12月22日『工商日報』|キャストについての続報
この時点で、薛志雄(ルイス・シット)ではなく、ジャッキー自身が監督をすることに、また結局実現しませんでしたがこの時点でも陳勳奇は出演予定だったようです。さらに、ジャッキーが『ヤングマスター』に出演時に注目していた張滌江(原名:張嘉年)、つまり太保の出演を希望しています。
1981年01月:ロケ地を韓国から台湾へ変更
で、結局そんなこんなしてるうちに韓国を引き上げてしまいます。
- 新聞記事:1981年01月07日『工商日報』|ロケ地を韓国から台湾へ変更
この記事によると、ジャッキーは1月はじめに香港に戻り、韓国は天候があまりに悪いために台湾の台北にロケ地を変更するとのこと。
ジェネオンのDVD特典の薛志雄(ルイス・シット)のインタビューから補足すると、「当初、韓国で1ヶ月間ロケの準備が進められていたが、撮影1日でジャッキーが寒くて動きにくいと言ったため、台湾での撮影に切り替えられた。結果、8割が台湾、残り2割が香港で撮影され、韓国での撮影シーンは一切使われていない。」とのこと。
つまりこの1ヶ月というのが、80年の11月末から12月末までのことと思われます。
自伝では3か月ということになっていますが、すでにお伝えしたとおりジャッキーは10月頃から韓国に滞在しているため、これも誤りではないようです。ロケ班が韓国入りして、本格的に製作準備していたのが1ヶ月ということですね。
ロー・ウェイ、『ドラゴンロード』を獲得し長い契約問題が集結
ようやくこれで『ドラゴンロード』の撮影も本格的にスタートするかと思いきや、まだまだ羅維との問題が糸を引きます。(全然解決してないやん・・・)
いいかげんこの記事を書いてる私もイライラしてきましたが、81年1月、ふたたび王羽さんが登場し仲裁役に。
もう面倒なのでかなり端折って書きますが、『ドラゴンロード』の製作費やジャッキーのギャラなどで羅維とゴールデンハーベスト(ジャッキー)がまたもめているわけです。そして結局、裁判沙汰にまで発展しているようです。
肝心の『ドラゴンロード』は1981年1月24日に台北近郊での撮影が開始。翌2月12日にはヒロインに抜擢された雪梨が台湾入りします。
ちなみにこの頃台湾でのパーティーの席上で、後に結婚することになる林鳳嬌(リン・フェンジャオ)と出会っています。
そして、もういい加減疲れてきましたが、今度こそ羅維との問題にケリがつきそうです。
- 新聞記事:1981年03月17日『工商日報』|羅維と成龍が合意書、「ドラロー」は羅維所有に
ついに、王羽とウィリー・チェン立会いのもと、ジャッキーと羅維が和解の合意書にサインをしました。拍手!!
結局、日本での興行権等細かいことはわからないのですが、『ドラゴンロード』は羅維のものに。。。でも、資金はゴールデンハーベストが負担すると。。。
なんかこの後のジャッキーの時間とフィルムの浪費がわかっているだけに、とてもゴールデンハーベストが不憫に思えてなりません。こんな裏事情があったのなら、もうちょっと何とかならなかったのかジャッキー!!
『ドラゴンロード』、1年間の製作過程
以下、その後の製作状況や81年の出来事を簡単に書いていきます。(今回新聞記事は省略していますが、すべて当時の新聞記事からの情報です。)
- 1月末の撮影開始以来、2カ月が経過した3月末の段階での進捗は約3分の1で、2,000フィートほど撮影。
- 4月。600万ドルの保険に加入、台北でのロケを5月中に終わらせ、残りは香港のゴールデンハーベストスタジオで1ヶ月撮影し完成する予定。(つまり6月にはということ)
- 5月、悪天候により製作が遅延。いまだ3分の1の進捗。完成予定は7月頭に。ゴールデンハーベストの『ドラゴンロード』後の企画として『プロテクター』が浮上。(この時点では『威龍狂探』や『威龍猛將』などと表記)
- 7月、王羽や羅維が裁判沙汰(恐喝容疑、たぶん一連の成龍がらみだと思うが)で被告人に?(詳しく分からないのでスルーします。)
- 7月中旬、また完成予定が伸び、あと2カ月に。ゴールデンハーベストは『プロテクター』を年末には撮影開始したい。
- 8月初め、「ドラゴン・キッカー」の場面で1,000回NG。主要場面の撮影は終了。2名のスタントマンが撮影中の事故で死亡。
- 9月末、まだ完成せず。10月末には完成させたい。『プロテクター』に起用する新人を探し始める。
- 11月初め、ベンツ500を新車で購入。ジャッキー2台目の名車。
- 11月中旬、撮影完了。ジャッキーがゴールデンハーベストと新たに3本の契約結ぶ。
- 12月上旬、ジャッキー自ら『ドラゴンロード』の編集作業中。本来は『プロテクター』に取り掛からなきゃならないのだが。
- 翌82年1月21日、『ドラゴンロード』香港公開。
なにはともあれ、ようやく完成です。一気に1年間をまとめちゃいましたが、その中でいくつか記事を紹介しておきます。
まず、『ドラゴンロード』とは全く関係ないのですが、1981年11月14日、工商日報掲載の新聞広告から・・・
いきなり何かとお思いでしょうが、これは日本の特撮忍者映画、『大忍術映画 ワタリ』。香港でのタイトルは『忍者飛斧神童』となっています。
この映画、アジアで大ヒットしたらしいのですが、ジャッキーも映画祭かなんかで見て絶賛していたとか。で、広告にもあるように「成龍特別推薦」との肩書を頂戴したというわけです。
まぁ、ホントに余談中の余談なんですが・・・詳しい説明はリンク先で確認してください。なにやら評価が高い映画のようですね。
『ドラゴンロード』まとめ
11月半ばのジャッキー契約更新の記事にこの作品に関するお金まわりの話がまとめられています。(スペースの都合上、記事のレイアウトを変更しています。)
ジャッキーはやっと撮影を終えてホッと一息という感じの表情ですが、レイモンド・チョウはこの頃、笑えてたのだろうか・・・。
使ったフィルムは24万フィート(後の記事では30万フィート)、保険金は30万HKドル、ゴールデンハーベストの投資額は2,000万HKドル。ちなみにこの投資額については、12月には2,600万、1月には2,300万となっており、どれが正確かはわかりませんが、いずれにしても國語片での最高製作費だったようです。
ジャッキーとゴールデンハーベストの契約ですが、この次に撮る予定の『プロテクター』は『バトルクリーク・ブロー』と『キャノンボール』とともに当初の契約に含まれるようで、その後さらに3本の再契約を結んだようです。専属で在籍するというような形では無く、あくまでその都度の契約だったんですね。
お次は、『ドラゴンロード』と羅維のまとめ的な記事をひとつ。(こちらもスペースの都合上、記事のレイアウトを変更しています。)
復習です。羅維は『醒拳』の代わりに『ドラゴンロード』を要求、その代わり羅維との4本の契約や今後はもうジャッキーと関わらないと約束。ついに『ドラゴンロード』の世界版権を手に入れる。
金額的なところはちょっと訳し方がわからないのですが、820万HKドルの製作費というのは羅維が出した金額なのかな?要するに2,000万以上かかった製作費のうち、820万負担してやるから版権はよこせよ的な?
とにかく羅維はこの1件で1,000万HKドルほどの利益を手にするそうです。なにかこの羅維の笑みに殺意を覚えますなー。
下は製作日程イメージです。
いよいよ公開、謎の興行成績
香港では、1982年1月21日に公開されています。続いて日本で4月10日、韓国は6月5日公開となっています。
下は香港での新聞広告なんですが、何か面白い企画やってますね。
細かい内容は文字が見えにくく、よくわからなかったのですが、とにかく『ドラゴンロード』興行成績クイズみたいな感じでしょうか。『ヤングマスター』を超えるか?どこまで行くか?みたいな。ちなみにこの黒人なんたらはガムの名前(メーカー?)のようです。
さて、興行結果なんですが、ここにも新たな謎が。
10,936,344HKドルという説と17,936,344HKドルという説があり、自伝「僕はジャッキー・チェン」の中では、「日本とアジアの各地ではまあまあの成績だったが、香港では『ドラゴンロード』は大失敗だった。」と書かれていること。
※以下で書いている1,800万説は誤りです。ページ末にも書いてありますが、一応推察(間違ってましたが…)の過程は残しておきます。
一応、当サイトでは1,800万説の方を押しています。下がその場合の1982年香港興行成績ランキングです。
こちらは1,100万とした場合。
1位の『最佳拍檔(悪漢探偵)』は、エリック・ツァン監督、サミュエル・ホイ主演のコメディ作品で、この作品に『ドラゴンロード』が興行成績で負けたというのは当時の新聞記事にもなっていたので間違いありません。ちなみにジャッキーは翌年もこのシリーズに首位を取られてしまいます。
この件に関しては全然確信はありません。確かに、2年前の『ヤングマスター』が1,100万HKドルで1位を獲得し、その後の『バトルクリーク・ブロー』が580万、翌年の『キャノンボール』が550万という流れを見ると、『ドラゴンロード』の1,100万説も説得力があるように感じます。(翌年の『プロジェクトA』が1,900万)
そしてダメ押しに自伝での「大失敗」という記述。
しかし、私はあえて1,800万説を押します。まず、自伝の、特に興行成績がらみの記述はかなり曖昧で当てにはならない(たとえば2,000万稼いだ『ファースト・ミッション』は100万と記述)、ただ「大失敗」という意味では、気合いMAXで臨んだにもかかわらず、1位に大差をつけられた事や、膨大な時間と製作費を使ったため目標が高かったと思われること、また収益の大部分が羅維に行っていることなどから「大失敗」という位置づけになったのではないかと思っています。
また、もし1,100万だとすればジャッキーは年間7位に。『バトル』と『キャノン』はハリウッド作品なのであまり参考にはならないと思いますが、色々なゴタゴタがあったにせよちょっとそのランクはあり得ない気がしてなりません。
金額だけを見るとわかりにくいのですが、当時の香港での全体の興行収入額はかなりの勢いで増加しています。
下の表は1980年~1983年の香港興行成績TOP10作品とその合計額、TOP100の合計額の表です。
何が言いたいかというと、『ヤングマスター』1,100万、『ドラゴンロード』1,800万と考えると随分と『ドラゴンロード』の興行成績が良く見えてしまいますが、そうでもないということ。
1980年と1982年を比べると、上位10本や100本の合計興行収入額が2倍以上になっています。これはインフレでチケット代が上がったからなのか、良く理由はわかりませんが。
大したことではないのですが、一応グラフも載せておきます。
ちょっと82年前後がわかりにくいので拡大版も。
ですので、市場から考えると『ドラゴンロード』が狙っていたのは2,500万HKドルぐらいだったはずです。そう考えると700万も数字を落としてしまったわけです。
話の流れから言うと自伝のように、『ヤングマスター』後にアメリカ進出に失敗し、『ドラゴンロード』でさらに失敗、しかしブラザーの助けもあって大復活という流れの方が、盛り上がるしドラマティックになります。(本当は『蛇拳』のあとに『拳精』『龍拳』『酔拳』が同時期に製作されていたにも関わらず、『拳精』『龍拳』でパッとしない後に『蛇拳』『酔拳』で一躍スターにと話の流れを変えていたのと同様に)
そうした脚色が、自伝での「大失敗」という表現につながったのではとも思っています。
とはいえ、決定的な決め手ではありませんがねぇ。。。
とにかくこれでようやく羅維時代の幕が下りたわけです。興行成績に続く新シリーズとして連載してきた「ジャッキー映画製作年の謎」シリーズもいよいよ終わりに近くなって来ました。あとは、数本の補足記事で終了予定です。(あ~しんどかった・・・)
【追記】 2012年2月
商品情報
ジェネオンのDVDは「大陸版」を収録。
kungfufanさん、はじめまして。
大変な労作、お疲れさまでした。
ここまでの検証、すばらしいと思います。
データについてお役にたてることがあればと思い書き込みます。
電影双週刊刊行の『1969-1989 首輪影片票房紀録』という月別興業成績をまとめた本があります。
この本では、『ドラゴンロード』はkungfufanさんのリストにある17,96万HKドルとなっているのですが、年間ベストでは3位になっています。
もちろん1位は『悪漢探偵』なのですが、なぜか2位として『プロジェクトA』があがっています。19,32万HKドルの数字で、公開時期は12月22日から翌83年1月11日となっています。この本では、公開開始の時期をその年度としているようです。
資料によって集計が違うようですね。
引き続きの、調査を楽しみにしています。
hide-fujiさんはじめまして。
情報ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
興行成績についてですが、
確かに資料によって12月公開をその年扱いにする場合と、
翌年扱いにする場合がありますよね。
ただ、『プロジェクトA』は1983年12月22日公開なので、
1983年か1984年のはずなんですよね。???
この公開時期に関しては間違いないので、これが82年の
ランキングに含まれているとすればきっと資料の間違いの気が。。。
kungfufanさん、こんばんは☆
2名死んだのは「ゴールデンポイント争奪戦」ったんですか! ぼくも、そんな気がしていました。おっしゃられてた「搶包山」も調べてみました。饅頭の塔によじ登って饅頭を取り合う祭りのようですね。しかしkungfufanさんは博学ですね~!ジャッキーも、スポーツを取り入れるという自身のアイディアで死人が出たなんて、ショックだったでしょうね。
はじめましてこんにちは☆いつも楽しく読ませていただいております。このサイトも初めのころより、随分充実してきましたね~♪ここまでやれば、たいしたものです。ところで、ドラゴンロードで「2名のスタントマンが撮影中の事故で死亡」ってマジッすか?ちょっと、ショックなんですけど。
どうもこんばんわ。
いつもありがとうございます。
ドラゴンロードの件ですが、該当記事をUPしておきました。
こちらの1981年8月4日の工商日報です。
http://kungfutube.info/wp-content/uploads/nsp/19810804.png
もしかしたら誤訳してしまってるかも知れませんが、
その死亡によって、ジャッキーがスタントマンの地位向上、福利厚生の向上などに
積極的に取り組むようになったのだと思います。
その事故が起きた場面はやはり「ゴールデンポイント争奪戦」のようです。
この競技のもととなった「搶包山」という祭り行事も、死者が余りに出るため
中止になったこともあったようです。(今は再び復活しているようですが)
そこまでやったシーンにもかかわらず、今あらためて観てもそんなにグッとくる
シーンでもないんですよね~